近世の街道 ー車道・車石ー
近世以前の主要街道は旅人や商用で多くの人々が通行するだけでなく、陸路を物資の輸送をする牛車が行き交う産業道路でもありました。
そして、交通量の多い街道は人馬の通行のための歩道と、牛車専用の車道を分離していたようです。
物資輸送の牛車は車道(くるまみち)を通行したが、重量物を運搬するために雨や雪でぬかるんだ道や、急な坂道では大変難渋する。このため、牛車の幅に合わせて石畳で舗装され、この舗装敷石を車石(くるまいし)と称した。
三条大橋と車道
三条大橋の西詰めを川沿いを南下する小路がある。(突き当りを西行すれば先斗町に至る)
この小路は三条橋下流側のすぐ傍を河原に降り、橋を迂回して鴨川を渡るための車道の跡。東海道を通行する牛車の曳く車両はその重量のため橋を破損する恐れがある、このため鴨川の流れの中を渡ることになっていた。
対岸(東岸)に上がると大橋町南端と大黒町の境界となる辺り、三条通の南に並行する道につながっていたという。
車 道
見えている橋が三条大橋。(手前が下流側)
ここから鴨川の流れを横切り対岸に渡った。
通行する人々や牛車が多い街道・橋の傍など、あちこちに車道は整備されていたようで、これは近世に刊行された数々の名所図会に見てとることができます。
白川橋
大津道(東海道)である三条通も歩道と牛車の通る道は分けられていたようで、二列に石畳が敷かれた車道は白川橋の下流側の川中を通っている。
そして、京都盆地の粟田口(三条口)から大津に向う街道筋には他にも、日ノ岡峠手前の蹴上、山城国と近江国の境界である逢坂関越えといった急登坂の難所にも車道が敷設されていたようです。
ところで、人・馬などが蹴上げた塵・泥または泥水やはねの事を「蹴上」と云いますが、蹴り上げ蹴り上げしながら急坂を登る牛馬のこのような様(さま)が、地名「蹴上」の由来であるそうな。
竹田街道
江戸時代に伏見港と京都を結ぶ街道として造られた。旅人や天秤棒で荷を担ぐ商人達の行き交う歩道と車道は分けられ、牛車の通る車道は一段低いところを通っている。
道がぬかるむと牛車の通行に難渋するため平らな石で舗装されていたようだ。
車石2点
その1(棒鼻):車輪の轍跡凹みが非常に深くクッキリと残る
車力が居眠りしていても牛は道をそれる恐れなし
その2(旧陶化小学校):見辛いのですが中央のやや右が轍跡の凹みです
川端通
四条橋東岸の北、常盤町から川端町へ通じる小路を土地では車道と云っていたようで、寛永の古図に伏見車道と記しているそうだ。これも牛馬の曳く車両が橋を壊す恐れがあるので、車道から鴨川の流れを渡った名残と云う。
荒神口
荒神口も「京七口」の一つです。鴨川西岸から荒神橋を東へ渡ると、志賀越道・今道など時代により呼称が変わる山中越のはじまるところ。この荒神橋西南に牛車が河原に降りて川を渡るための小路(車道)が設けられていたそうで、以前は車の轍跡のついた敷石が残っていたと云う。
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