祇園祭と山鉾
ン十年振りに祇園祭宵山の見物に行きました。新聞には27万人の人出とありました。
(四条傘鉾)棒振り踊り踊り手の子供たち、可愛いッ
1. 祇園祭
祇園祭は八坂神社の祭礼です。明治維新に神仏分離令が出されるまで祇園感神院(祇園社とも)を称した「祇園社の祭」なのです。
もとは祇園御霊会と呼ばれ、疫病が流行した時に疫神や怨霊を鎮めるために祈願したのが始まり。
南北朝以後に洛中の町まちから作山が出され、神輿渡御にも加わっていたようだ。(祇園社「社家記録」)
しかし、11年に及んだ応仁の乱で中絶したが、明応9年(1500)室町幕府の援助により略式で復活して以後、山鉾は華麗になっていったという。
もともと、前の祭・後の祭りの2回に分けて行われ、御神輿の渡御と還幸に山鉾が随行するものでした。
現在の山鉾巡行は、8基の「鉾」、2基の「傘鉾」、23基の「山」、合わせて33基の山鉾が参加しており、大きさは高いものは25m、重さは12トンもあるという。
2. 応仁の乱以前の山鉾
「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)に、山鉾は前の祭として31基・後の祭で28基が記されており、現在では見ることの無い名称のものも多い。
これは、名称に変遷があるだけでなく、室町時代は鉾の趣向が固定しており決まった山鉾を出す町と、その都度新しい趣向で創作する町があったためらしい。
所在範囲は現在よりも広かったようで、北は殆どが二条通くらいまでに位置するが「ふすま僧山」の1基だけが「鷹つかさ(現・下長者町通)」と記されている。そして、東は柳馬場通・西は猪熊通となっているが、南は高辻通までと現在に同じです。
月 鉾
3. 明応9年(1500)の復興時の様子
「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)には、前の祭が27基・後の祭が10基の山鉾名称と所在を記している。
今では長刀鉾など9基の山鉾が、慣例で巡行の順位が定まった「籤取らず」となっており、それ以外の24基は「籤改め」で巡行の順番を決めている。その当時の巡行順位を決めるに際し、町人の間で争論が起ったため、「籤改め」が始まったと記録にあるようです。
近世に入り、山鉾の種類はほぼ現在のものに固定したという。
享保2年(1717)の「京都御役所向大概覚書」によれば、前の祭に長刀鉾をはじめ23基、後の祭に橋弁慶山はじめ10基の山鉾の巡行を記している。
そして、宵山に駒形提灯を立て灯し、氏子の家々で家宝の屏風を飾り見せるようになったのは18世紀の半ば頃からとされる。
山伏鉾の御神体
4. 元治元年(1864)「蛤御門の変」による被害
「どんどん焼け」「鉄砲焼け」とも呼ばれるこの大火で市中27,500軒が焼失し、鉾町でも大きな被害を受けた。
このため、大火以前の規模に近い形で巡行が回復したのは明治5年(1872)であったという。
その後も断続的に復興して、明治時代には南観音山と船鉾、昭和も戦後になって菊水鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾よいうように、極めて長期をかけて復興を果してきたようです。
また、復興がならず休み山となっていた大船鉾は、焼失を免れた御神面を唐櫃(木箱)に納めて担ぎ、昨年から巡行に参加しており、焼失150年を機に来年の再興と巡行復帰を目指している。
同じく、休み山となっている鷹山と布袋山は、御神体の人形を宵山に飾り祀られる。
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