2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

2013年8月30日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 6

傘鉾町

Photo_8

 傘鉾町は四条通を挟む両側町で、油小路通と西洞院通の間。
 町名は祇園会に傘鉾を出していたことによるが、寛永期以前は「白粉町」「白粉屋町」と称したこともあると云う。
 元亀年間の古文書に「四条かさほく町」「四条かさほこ町」と現町名に共通する町名が見え、寛永年間の古絵図には「かさ鉾町」「笠鉾之町」と現町名が見えると云う。

Photo_9

 「四条傘鉾」は、元治元年(1864)蛤御門の大火で焼失した鉾の中では、最も遅く昭和の末年になって復興を果たし巡行に参加している。
 応仁の乱以来の傘鉾の原型を保つと云われ、錦の垂をつけた傘はその上に御幣と若松を飾り、8人の子供が舞う棒振り囃子とともに巡行する。
 「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)によると、応仁の乱前の前の祭に「こきやこはやし物」。明応9年(1500)復興時の「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)には、「かさはやし」とあって傘の練物を出したと云う。

綾傘鉾
 傘鉾は「四条傘鉾」のほかにもう一つあり、それは善長寺町(綾小路通新町東入)の「綾傘鉾」です。

Photo

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
本シリーズはとりあえず今回を以て「終り」ます。

2013年8月23日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 5

天神山町

Photo_5

 天神山町は錦小路通を挟む両側町で、新町通と室町通の間。
 (天神山町の東寄りに、錦小路通と四条通の間を「橦木辻子(観音堂辻子とも)」が通じているのですが、これは以前に辻子シリーズの一編として記事にしました)
 「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)によれば、応仁の乱以前から「天神山」を出しており、前の祭で巡行した。明応9年(1500)復興時の「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)にも「天神山」と記されている。町名はこの山鉾の名前に由来します。

Photo_4

 しかし、江戸中期の宝暦〜天明期にかけての頃から、この山を「霰天神山」と呼ぶようになったと云う。これは、ある大きな火災が起きた時に、時ならぬ霰が降って猛火は忽ちにして消えた。寄って見ると長さ一寸二分の天神が霰と共に降り屋根にとどまっていた。このため「霰天神」あるいは「火除け天神」と名付けたと云い、天明の大火・元治の大火でも類焼を免れた効験があると伝わります。山の名称はこの伝承によるのですが、このため町名は「あられや町」の別称もあったようです。

三条町(平成版の仁丹町名表示板)

N

 三条町は新町通を挟む両側町で、三条通と六角通の間。
 町名は三条通に面していることから来ると思われますが、この呼称は室町期から見られるそうです。この辺りは、南北朝期以来商業の中心地として発展したらしい。
 三条町には、豊臣秀吉が上洛した折には宿所とした豪商の伊藤道光邸があり、「伊藤町」との呼称もあったようです。

Photo_7

 応仁の乱以前から後の祭りに「八幡山」を出していることが、「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)に記される。
 鉾の名は町内に祀る八幡社に由来するが、鳥居の笠木に彫られた二羽の白鳩は左甚五郎の作との伝承がある由。
 なお、八幡山はもう一つ石井筒町(油小路通四条下ル)にもあったが、明応9年(1500)から近世初期まで前の祭に出していたものの廃絶したと伝わる。

2013年8月16日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 4

矢田町

Photo

 矢田町は綾小路通を挟む両側町で、西洞院通から新町通の少し西までの間。
 応仁の乱以前の様子を描いた古地図には、当町南頬(つら)西角に金剛山矢田寺が描かれており、町名由来はこの寺に因むという。なお、この矢田寺は天正18年(1590)に、豊臣秀吉の命により天性寺前町(寺町通三条上ル)に移転しています。

Photo_2

 「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)によれば、応仁の乱前には前の祭に「地さうほく(地蔵鉾)」とあって、名前の由来は矢田寺地蔵尊に因んだもの。
 また、明応9年(1500)復興時には「琴ハリ山(琴破山)」とあるが、明治4年(1871)から「伯牙山」と改名して巡行している。伯牙山の名と飾り付けは「呂氏春秋」にある中国周代の琴の名手・伯牙が友人の鐘子期が死んだことを聞いて、合奏できなくなったことを悲しみ琴の弦を断ち切ったという話に因むそうです。

木賊山町(とくさやまちょう)

1_2

 木賊山町は仏光寺通を挟む両側町で、油小路通の少し東から西洞院通の少し西まで。
 町名は祇園会に「木賊山」を出していることによる。

Photo_3

 「木賊山」の名前が記録上はじめて見られるのは、延宝2年(1674)「祇園会山鉾考」においてだそうです。
 鉾の名は世阿弥作といわれる謡曲「木賊」によると云う。木賊は源仲正の和歌「木賊刈る園原山の木の間よりみがきいでぬる秋の夜の月」(未木抄)をもとにしており、信濃国の園原山で木賊刈りを生業としていた伏屋の里の老翁が、誘拐された我が子と対面するという物語。鉾の飾り付けはこの老翁の人形で、人形の頭は仏師春日の作と伝え、足台に「元禄五年六月」の墨銘があると云う。

2013年8月 9日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 3

六角町(平成版の仁丹町名表示板)

N_2

 六角町は新町通を挟む両側町で、六角通と蛸薬師通の間。
 六角町尻小路(六角新町)には鎌倉から室町にかけて、六角生魚御供人(朝廷に隷属して天皇に食料を貢進する集団)の座が存在したとの記録があるそうだが、近世に入ってからも下京の商業の中心であり、御用商人が軒を並べ豪商三井家などの邸宅があったと云う。

Photo_3

 祇園会では応仁の乱以前から「北観音山」を出しており、後の祭りに巡行する。山に祀られる観音は楊柳観音で、脇仏は韋駄天。
 本来は後の祭りに「籤とらず」で先行した。江戸時代には百足屋町の「南観音山」と交替で巡行に参加し、別名を「上り観音山」と称した。
 応仁の乱以前の山鉾を記す「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)には「ようゆう(楊柳)山」、明応9年(1500)復興時の「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)には「くわんおんふたらく(観音補陀落)」と記されている由。
 なお、町有文書によれば、文和2年(1353)から延享4年(1747)まで、北嵯峨観空寺村(現・右京区嵯峨観空寺町)の嘉兵衛という樵の家がこの「山」の松材を納め続けたとの記録がある。したがって、文献で知られる最も古い「山」と云うことになるそうです。

百足屋町(平成版の仁丹町名表示板)

N_3

 百足屋町は新町通を挟む両側町で、蛸藥師通と錦小路通の間。
 町名の由来は「むかでや」という豪商があったことによると云う。この町には、公儀呉服商で朱印船貿易の特権を得た茶屋四郎次郎の邸宅もあった。

Photo_4

 祇園会に曳山「南観音山」を出すが、本来は後の祭りに巡行する。江戸時代には六角町の「北観音山」と交互に隔年で巡行した。別名を「下り観音山」と称したそうだ。
 応仁の乱以前の山鉾を記す「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)には「ふたらく(補陀落)山」、明応9年(1500)復興時の「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)には名前が見えないがやがて復興したようで、現在に到っている。
 山に祀られる観音は「北観音山」と同じく「楊柳観音」だが、脇侍として祀られるのは善財童子。

2013年8月 2日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 2

姥柳町

Photo_2

 姥柳町は蛸薬師通を挟む両側町で、新町通と室町通の間。
 応仁の乱以前は当町から祇園会に出していた「浄妙山」が骨屋町(六角通烏丸西入ル)へ移された後、かわって「布袋山」を出していた。
 応仁の乱後、明応9年(1500)復興時の記録「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)に「布袋山」の名が出ており、これが初見と云う。
 しかし、宝暦年間(1751〜63)から巡行に不参加となり、天明8年(1788)に39,720軒が焼失した「天明の大火(団栗焼とも)」の折、布袋尊と二童子を残して焼失したとの記録があり、現在のところ復興できていない。このため、宵山に限って御神体を飾る居祭りとなっています。

 なお、この姥柳町には中世に織田信長の保護で建立された南蛮寺(切支丹聖堂)があったが、後に豊臣秀吉の禁教令で破却されたと云う。(以前に「中世末の京都とキリスト教 ー南蛮寺跡1−」で記事にしました)

船鉾町(平成版の仁丹町名表示板)

N_3

 船鉾町は新町通を挟む両側町で、綾小路通と仏光寺通の間。
 町名は「船鉾」に因むがこれは大正14年(1925)以降のことで、それ以前は袋屋町(江戸中期から明治2年までは北・南袋屋町に分離)と称していたと云う。
 応仁の乱以前には二基の船鉾が巡行したそうだ。一は当町の「船鉾」であり、前の祭の最後尾を努めた「神功皇后出陣の船」で、現在も巡行が続いている。神功皇后と鹿島明神・住吉明神・安曇磯良の三神を祀る。

 しかし、もう一つの船鉾は後の祭り唯一の鉾として、巡行の最後尾を飾る四条町の「大船鉾」で、こちらは「神功皇后凱旋の船」とのことです。
 しかし、元治元年(1864)蛤御門の変で船形の木組みや車輪など主要構造部分を焼失、現在まで復興できないため巡行に参加していなかった。しかし、150年振りに明2014年の復興と巡行参加を目指しており、今年は唐櫃に納められた御神面を担いで巡行に加わりました。

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »