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2013年8月 2日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 2

姥柳町

Photo_2

 姥柳町は蛸薬師通を挟む両側町で、新町通と室町通の間。
 応仁の乱以前は当町から祇園会に出していた「浄妙山」が骨屋町(六角通烏丸西入ル)へ移された後、かわって「布袋山」を出していた。
 応仁の乱後、明応9年(1500)復興時の記録「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)に「布袋山」の名が出ており、これが初見と云う。
 しかし、宝暦年間(1751〜63)から巡行に不参加となり、天明8年(1788)に39,720軒が焼失した「天明の大火(団栗焼とも)」の折、布袋尊と二童子を残して焼失したとの記録があり、現在のところ復興できていない。このため、宵山に限って御神体を飾る居祭りとなっています。

 なお、この姥柳町には中世に織田信長の保護で建立された南蛮寺(切支丹聖堂)があったが、後に豊臣秀吉の禁教令で破却されたと云う。(以前に「中世末の京都とキリスト教 ー南蛮寺跡1−」で記事にしました)

船鉾町(平成版の仁丹町名表示板)

N_3

 船鉾町は新町通を挟む両側町で、綾小路通と仏光寺通の間。
 町名は「船鉾」に因むがこれは大正14年(1925)以降のことで、それ以前は袋屋町(江戸中期から明治2年までは北・南袋屋町に分離)と称していたと云う。
 応仁の乱以前には二基の船鉾が巡行したそうだ。一は当町の「船鉾」であり、前の祭の最後尾を努めた「神功皇后出陣の船」で、現在も巡行が続いている。神功皇后と鹿島明神・住吉明神・安曇磯良の三神を祀る。

 しかし、もう一つの船鉾は後の祭り唯一の鉾として、巡行の最後尾を飾る四条町の「大船鉾」で、こちらは「神功皇后凱旋の船」とのことです。
 しかし、元治元年(1864)蛤御門の変で船形の木組みや車輪など主要構造部分を焼失、現在まで復興できないため巡行に参加していなかった。しかし、150年振りに明2014年の復興と巡行参加を目指しており、今年は唐櫃に納められた御神面を担いで巡行に加わりました。

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