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2013年9月

2013年9月27日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 1

 先週、記事『「京七口」と街道 ー粟田口と東海道ー』を載せましました。
 そこで取りあげた旧東海道(三条通)沿いには、三条大橋から東方の広道(現・岡崎通)にかけて、かなり多くの辻子が存在しているのです。
 そこで今回から暫くは、三条通沿いに存在する(存在した)これら辻子とその周辺を巡り歩いて、記事にしてみることにしました。

 今回は、「超勝寺辻子」と「馬屋辻子」です。

超勝寺辻子

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 「超勝寺辻子」は孫橋通新麩屋町から南へ、超勝寺門前町と法林寺門前町の境界、大橋町と二町目の境界を通貫して三条通に出る小道です。辻子名は言うまでもなく辻子にある超勝寺に由来します。

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 「大橋町」は三条大橋の橋詰に位置することが町名の由来。もとは「大橋詰町」「大橋東一町目」(もしくは「一町目」)といったようですが、江戸時代後期に大橋町の名が定着したらしい。
 大橋町は洛外でありながら洛中に近いため、また東海道の起点にあたる人通りの多い土地であることから、晒刑の場となることもあったようです。
 「二町目」は三条通に面して一町目(大橋町)から東へと続く二つ目の町であることが町名の由来。

法林寺(檀王)標石

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 法林寺は何度かの移転と寺名変更があったのですが、永禄年間にほぼ全焼したあと、慶長年間に僧袋中が再建して梅檀王院(ばいだんおういん)と称した。通称の「檀王(だんのう)」はその略称です。

馬屋辻子

Photo_2

 「馬屋辻子」は孫橋通から三条通に出る小道で、和国町と三町目の境界、さらに三町目を通貫しています。
 宝暦12年刊『京町鏡』には「此辻子東側に正栄寺と云浄土宗の寺あり。西側に馬屋あり」との記述があり、これが辻子名の由来となったと云う。しかし、その馬屋の実態についてはよく判らないと云う。

和国町の仁丹町名表示板
 これは上の写真で辻子入口左の民家、二階角の軒下に見えるものとは別ものです。

Photo

 「和国町」は宝永5年(1708)の大火以後、堺町通丸太町上ル駒本町(現在は京都御苑となっているが当時は町地であった)の住民を移して開町した。二条川東一帯の町々は何れも同じ事情で移転してできた町なのです。
 「三町目」の町名由来は、三条大橋橋詰の一町目(大橋町)から東へ、三条通に面して続く三つ目の町であることによる。

2013年9月20日 (金)

「京七口」と街道 ー粟田口と東海道ー

 「東海道」は古代から山城国の北部と東海・東山・北陸道を結ぶ主要道でした。
 江戸時代の五街道(東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中)は主要幹線道路であるため、政治・軍事上の必要から幕府直轄とし、道中奉行の管轄下に置いていました。
 鴨川の三条大橋から粟田口・松坂・日ノ岡峠・四ノ宮河原・逢坂の関を越えて大津へと至る道は東海道の一部にあたり、三条街道・大津(街)道・近江路という呼称もありました。
 また、伏見から大亀谷・山科勧修寺を経て大津に至るルートもあって、これもやはり大津街道と云い、江戸時代には参勤交代の大名が京都を避けて伏見宿から大津宿へ直接出る道筋として重視されました。
 なお、京から近江への道としては他に、雲母越・山中越・渋谷越などもあった。

 さて、東海道で京の出入り口となるのが「粟田口(三条口とも)」なのですが、ここはどのような地だったのでしょう。

1. 地域名としての粟田口

 「粟田口」は元々、三条白川橋から東方、東山西麓一帯で日ノ岡手前の蹴上までを云う。
 古くは愛宕郡(おたぎぐん)13郷の一つ粟田郷であり、現在の左京区浄土寺・鹿ヶ谷・岡崎一帯を「上粟田郷」、岡崎の南の三条通から四条通以北を「下粟田郷」と称したようで、既に平安期の文献にはその名が見えるそうです。

三条白川の道標
 これは延宝六年(1678)の建立になり、京都最古の道標とされる。
 「京都為無案内旅人立之」としており、京都に不慣れな旅人の為の道案内に建立したと云う。
 「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と名所の名が刻まれている。
 施主の名前に代えて「施主 為二世安楽」と刻まれている。仏の慈悲により二世にわたって安楽を得ることを願い、功徳を積む意味で建立したのでしょう。

Photo

 粟田郷は東国から京への入り口にあたることから「粟田口」と命名されたが、この地は古来より山城北部(後に平安京が造営される地域)から東方へ抜ける、交通上の最も重要な要衝地でした。
 このような粟田口の位置は、戦略上においても重要な地点であったため、「保元物語」や「平家物語」などにこの地をめぐる攻防が記されています。
 またこの地には貴族達の別荘が多く設けられていたことが、「日本後記」「三代実録」「栄華物語」「大鏡」から知られると云います。

 正確な跡地は不明ながら、粟田口東端と日ノ岡の境界地あたりには、古く平安の中期から「粟田口刑場」の記録があり、江戸時代にも処刑や晒首がおこなわれたと云う。
 天王山(山崎)の戦いに敗れた明智光秀と斎藤利三の首・胴体が晒されたのもここで、この時にはその他の首三千余を集めて首塚がつくられたそうだ。豊臣秀吉の伴天連追放令・禁教でキリシタンの市橋庄助が磔刑に処せられたのもここであったと云う。

「粟田口」石標

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 粟田口には平安中期に大和の刀工が来住して粟田口を家号とした。鎌倉以来は多くの名工を輩出して相模の正宗と並び江戸時代にはもてはやされ、その作を「粟田口物」と云った。そして、その刀工を三条小鍛冶と称したのは、粟田口三条坊に住んだたことによる。

 また、東山一帯では粟田焼の製陶がおこなわれ、滝沢馬琴が享和2年(1802)京都を訪れた時、「京都の陶は、粟田口よろし。清水はおとれり」と旅行記『羈旅慢録』に記すそうで、当時は清水焼の窯を凌ぐ人気を保ち、宮中や幕府など高貴の人々の間で重用されたようですが、幕末には清水焼に押されてしまい、明治末頃には凋落するに至ったと云う。

2. 京七口の一つとしての粟田口

 京都には、都と外部(郊外・諸国)を結ぶ街道の出入り口が設けられ、口の付く地名が多く存在した。
 一般的には「京七口」と云われるが、京案内の文献に依れば、時代により位置・名称が変化しており、数も七つに一定していたわけではかったようです。

「弥次喜多」像
 東海道を上ってきた弥次郎兵衛と喜多八、三条大橋を渡り京に入ったところ。

Photo_3

 「粟田口」には、他に大津口・東三条口・三条橋口・三条口などの名称もありました。これは、口地名が行き先や経由地を示す場合と、口が所在する位置の地名を示す場合とにより呼称が異なったのです。
 つまり、経由地を表して「粟田口」、行き先を示して「大津口」、所在する土地の「三条口」というように呼称の違いが生じたようです。
 先に記したように、「粟田口」は京の出入り七口の中でも、要衝の地として最も重要な一つでした。

 ところで、豊臣秀吉は天正18年(1590)から翌年にかけて、大規模な京都改造をおこなっています。大きくは町割りの実施・寺院街の形成・御土居の築造でした。
 この御土居は高さ約5m、幅は基底部が約20mで上部は約5m、外側には濠を設けて全長は22.5Kmというもので、京都の市街地を包み込む大規模なものであったようです。この御土居築造の目的は諸説があるようですが、京都は平安の昔から鴨川の洪水と氾濫に悩まされていたので、鴨川の治水と防災と云うのも主要な目的の一つだったようです。

「三条口(粟田口)」跡付近

Photo_2

 この御土居に七ヶ所の出入り口が設けられたことから、「京七口」の呼び名が定着した模様。そして、その一つ「粟田口」(「三条口」など別称のあることは上記の通り)が設けられたのは、現在の「大橋町」(三条寺町東入ル)付近だとされるのですが、今ではその名残を留めるものは何も残っていません。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 ところで、三条通(旧東海道)を鴨川を渡って東進すると、三条大橋の東橋詰から広道(現・岡崎通)にかけて十数ヶ所もの辻子が目白押しに存在します。
 次回からは、これらの辻子を巡り歩く予定でいます。

2013年9月13日 (金)

辻子 ー四天辻子(主典辻子とも)ー

主典辻子

 「主典辻子」は松原通から六波羅蜜寺の東方、轆轤町と興善町の間(東山区役所の西側)を南行し、小島町と竹村町の間を経て東大路五条へと出る小路です。
 奈良東大寺の四天王製作にあたった人達(工人)は、この地に住んで仏師町をつくったと云い、「四天辻子」の呼称はこれに由来すると云う。

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 辻子の通る「轆轤町」は清水坂の坂下に位置していたことから「坂面(さかおもて)轆轤町」、隣接する「弓矢町」を「坂弓矢町」と記す古文書があるようです。
 この一帯は平安京が開かれ以来、葬送の地であった鳥辺野(鳥辺山)にあたり、開拓にさいして人骨が多く出土した、そのために人々は「髑髏町」と呼んでいたと云う。しかし、この呼び名は世間への外聞を憚ることから、後の寛永年中に所司代の板倉宗重が命じて、轆轤町と改めさせたと云います。

 なお、地元の伝承では「六道の辻」の六道は髑髏、そして「六波羅」も「どくろ原(髑髏原)」に由来すると云われていたようです。
 下の写真で石碑「六道之辻」の右側に見える町名表示板、町名が「轆轤町」となっているのが見て取れます。下部が錆びで広告主は判然としませんが、仁丹のものではありません。

Photo_2

 これと同事情による町名変更について、以前に「団栗辻子」の記事で触れましたが、建仁寺門前の荼毘所(火葬場)があったことから「墓場町」と呼んだ町を、聞こえが良くないことから町奉行の中根摂津守正包が「博多町」と変えさせたということもありました。

Photo_4

 「興善町」の名前は夢窓疎石四世の法孫である鈍仲が開基の興善院の跡地であったことに由来すると云う。この辺りは六波羅一帯で最も開発の遅れた地域だそうで、興善野と称される田園地帯であり、小字に珍皇寺・地蔵田・無量寿・日灯坊・遠藤塚などがあったという。

2013年9月 6日 (金)

辻子 ー北斗辻子とその周辺ー

北斗辻子

 「北斗辻子」は本町通七条下ル一筋目を東行し、その先を南に折れてす辰巳町との境界までのクランク型の小路。ただし、現状は大和大路まで抜ける道となっている。
 もとは本町七丁目・北斗町・西之門町を通貫していた。

Photo

辰巳町(仁丹町名表示板)

Photo_3

 北斗辻子と「北斗町」の名称由来は法住寺殿の境域にあった北斗堂に因むと云う。
 *法住寺殿・・・後白河天皇が出家後、法住寺焼亡跡地に後院(離宮)を営みましたが、これが法住寺殿と呼ばれて後白河天皇院政の拠点となった院御所です。
 「西之門町」は三十三間堂の西門前に位置する町ということでしょうか。

 ついでに、珍しいものを紹介しましょう。
 東山区というのは、昭和4年に下京区から分区して成立しました。したがって、それ以前に設置された仁丹町名表示板の行政区表示は、略すべてが「下京區」となっています。
 しかし、珍しいことに「東山區」表示のものがこの近くにあるのです。(現存では唯一のものかも?)
 「東山區」表示で作成されたものがこれ以外には無かったと云うことはないでしょうから、何らかの事情で取り外して保管されているものが日の目を見ることになれば楽しいのですが・・・。

一橋宮ノ内町(仁丹町名表示板)

Photo_2

 昭和4年に下京区から分区して東山区が成立した当時は、柳原村の村名を冠称する複合町名「柳原宮ノ内町」と称していました。(「柳原村」は大部分が下京区に属していたが、鴨川東岸の柳原宮ノ内町と柳原野本町のみが東山区に入った。柳原の地名由来は近世以前に柳原家領であったことによると云う。)
 その後、昭和6年に冠称を「柳原」から「一橋」に変更して、現在の「一橋宮ノ内町」となったのです。「一橋」の由来は、本町通の「本町十丁目」と「一之橋町(現・本町十一丁目)」の間、一之橋川(今熊野川)に架かっていた橋からきています。

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