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2013年9月20日 (金)

「京七口」と街道 ー粟田口と東海道ー

 「東海道」は古代から山城国の北部と東海・東山・北陸道を結ぶ主要道でした。
 江戸時代の五街道(東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中)は主要幹線道路であるため、政治・軍事上の必要から幕府直轄とし、道中奉行の管轄下に置いていました。
 鴨川の三条大橋から粟田口・松坂・日ノ岡峠・四ノ宮河原・逢坂の関を越えて大津へと至る道は東海道の一部にあたり、三条街道・大津(街)道・近江路という呼称もありました。
 また、伏見から大亀谷・山科勧修寺を経て大津に至るルートもあって、これもやはり大津街道と云い、江戸時代には参勤交代の大名が京都を避けて伏見宿から大津宿へ直接出る道筋として重視されました。
 なお、京から近江への道としては他に、雲母越・山中越・渋谷越などもあった。

 さて、東海道で京の出入り口となるのが「粟田口(三条口とも)」なのですが、ここはどのような地だったのでしょう。

1. 地域名としての粟田口

 「粟田口」は元々、三条白川橋から東方、東山西麓一帯で日ノ岡手前の蹴上までを云う。
 古くは愛宕郡(おたぎぐん)13郷の一つ粟田郷であり、現在の左京区浄土寺・鹿ヶ谷・岡崎一帯を「上粟田郷」、岡崎の南の三条通から四条通以北を「下粟田郷」と称したようで、既に平安期の文献にはその名が見えるそうです。

三条白川の道標
 これは延宝六年(1678)の建立になり、京都最古の道標とされる。
 「京都為無案内旅人立之」としており、京都に不慣れな旅人の為の道案内に建立したと云う。
 「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と名所の名が刻まれている。
 施主の名前に代えて「施主 為二世安楽」と刻まれている。仏の慈悲により二世にわたって安楽を得ることを願い、功徳を積む意味で建立したのでしょう。

Photo

 粟田郷は東国から京への入り口にあたることから「粟田口」と命名されたが、この地は古来より山城北部(後に平安京が造営される地域)から東方へ抜ける、交通上の最も重要な要衝地でした。
 このような粟田口の位置は、戦略上においても重要な地点であったため、「保元物語」や「平家物語」などにこの地をめぐる攻防が記されています。
 またこの地には貴族達の別荘が多く設けられていたことが、「日本後記」「三代実録」「栄華物語」「大鏡」から知られると云います。

 正確な跡地は不明ながら、粟田口東端と日ノ岡の境界地あたりには、古く平安の中期から「粟田口刑場」の記録があり、江戸時代にも処刑や晒首がおこなわれたと云う。
 天王山(山崎)の戦いに敗れた明智光秀と斎藤利三の首・胴体が晒されたのもここで、この時にはその他の首三千余を集めて首塚がつくられたそうだ。豊臣秀吉の伴天連追放令・禁教でキリシタンの市橋庄助が磔刑に処せられたのもここであったと云う。

「粟田口」石標

Jpg

 粟田口には平安中期に大和の刀工が来住して粟田口を家号とした。鎌倉以来は多くの名工を輩出して相模の正宗と並び江戸時代にはもてはやされ、その作を「粟田口物」と云った。そして、その刀工を三条小鍛冶と称したのは、粟田口三条坊に住んだたことによる。

 また、東山一帯では粟田焼の製陶がおこなわれ、滝沢馬琴が享和2年(1802)京都を訪れた時、「京都の陶は、粟田口よろし。清水はおとれり」と旅行記『羈旅慢録』に記すそうで、当時は清水焼の窯を凌ぐ人気を保ち、宮中や幕府など高貴の人々の間で重用されたようですが、幕末には清水焼に押されてしまい、明治末頃には凋落するに至ったと云う。

2. 京七口の一つとしての粟田口

 京都には、都と外部(郊外・諸国)を結ぶ街道の出入り口が設けられ、口の付く地名が多く存在した。
 一般的には「京七口」と云われるが、京案内の文献に依れば、時代により位置・名称が変化しており、数も七つに一定していたわけではかったようです。

「弥次喜多」像
 東海道を上ってきた弥次郎兵衛と喜多八、三条大橋を渡り京に入ったところ。

Photo_3

 「粟田口」には、他に大津口・東三条口・三条橋口・三条口などの名称もありました。これは、口地名が行き先や経由地を示す場合と、口が所在する位置の地名を示す場合とにより呼称が異なったのです。
 つまり、経由地を表して「粟田口」、行き先を示して「大津口」、所在する土地の「三条口」というように呼称の違いが生じたようです。
 先に記したように、「粟田口」は京の出入り七口の中でも、要衝の地として最も重要な一つでした。

 ところで、豊臣秀吉は天正18年(1590)から翌年にかけて、大規模な京都改造をおこなっています。大きくは町割りの実施・寺院街の形成・御土居の築造でした。
 この御土居は高さ約5m、幅は基底部が約20mで上部は約5m、外側には濠を設けて全長は22.5Kmというもので、京都の市街地を包み込む大規模なものであったようです。この御土居築造の目的は諸説があるようですが、京都は平安の昔から鴨川の洪水と氾濫に悩まされていたので、鴨川の治水と防災と云うのも主要な目的の一つだったようです。

「三条口(粟田口)」跡付近

Photo_2

 この御土居に七ヶ所の出入り口が設けられたことから、「京七口」の呼び名が定着した模様。そして、その一つ「粟田口」(「三条口」など別称のあることは上記の通り)が設けられたのは、現在の「大橋町」(三条寺町東入ル)付近だとされるのですが、今ではその名残を留めるものは何も残っていません。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 ところで、三条通(旧東海道)を鴨川を渡って東進すると、三条大橋の東橋詰から広道(現・岡崎通)にかけて十数ヶ所もの辻子が目白押しに存在します。
 次回からは、これらの辻子を巡り歩く予定でいます。

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