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2013年10月

2013年10月25日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 5

 今回は、「分木辻子」と「紙屋辻子」です。

分木辻子(ぶんきずし)

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 「分木辻子」は分木町を三条通から北行、南門前町と東姉小路町の境界を岡崎円勝寺町に至る小道。
 「分木」というのは田畑の字名であったという。なお、三条通以南は古川町通となっている。
 この町の南側に三条小鍛冶(宗近もしくは吉光)宅跡と伝わる所がようです。
 「南門前町」の町名は法皇寺の南門前にあたることによる。
 「東姉小路町」の由来は、三条通の一筋北、洛中の姉小路通の東の末にあたり、青蓮院門主良助法親王が在住した姉小路坊の旧跡であることによるという。

南門前町と東姉小路町の仁丹町名表示板

 下部の折損している部分は、「線」以下が「東入 南門前町」だったと思われます。
東山線は現・東大路通です。(昭和53年9月に廃止されるまで市電東山線が通っていた)

Photo_2

 「東姉小路町」の三条通北裏は《三条通北側の裏道》と云ったような意味であり、無名通りであることからこのような表記にしたのでしょう。このような表記は他にも大宮通西裏などがあります。

Photo_3


紙屋辻子

 

Photo_4

 

 「紙屋辻子」は大井手町を三条通から北行して、石泉院町で三条通北裏(三条通の北側裏通りを意味する通り名)に通じる小道。
 「大井手町」の名前は、かつての白川はその本流が町の北側を西流して鴨川に流入しており、ここに大きな井手(土堤)があったことによるという。この町の東、つまり白川以東が粟田口となっていた。
「石泉院町」は、この地に比叡山東塔石泉院の別院が所在したことで田畑の字名となり、これが開町の時に町名になったと云う。

2013年10月18日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 4

 今回は、「天部辻子(あまべのずし)」と「城安寺辻子」です。

天部辻子

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 「天部辻子」は三町目の東部(現在の三条通花見小路東入一筋目)を三条通から南行、教業町を通貫して若松通に至る小道。
 辻子の名前は、三条通から旧・天部村に通じていたことによる。天部村は明治4年(1871)村制をを廃して、現在の教業町・長光町・巽町が成立した。
 天部村ははじめ、寺町通四条下ルの貞安前之町・順風町の辺りに所在していたが、豊臣秀吉の御土居構築と寺町寺院街形成のため、この地が大雲院に与えられことでその替え地として、三条橋東に移転した。
 この天部村は少し特異な村であったようで、村自体の石高は僅少であるために村民は各地に出作して農業に従事していた。また、村は江戸時代を通じ役人村として京都町奉行のもとに四座雑色(しざのぞうしき)に従い、治安維持・公武の諸儀式警固・追捕役と囚人の監督等の御公役に勤仕し、江戸初期には二条城の雑役夫役と太鼓張立などをおこなった。また、禁裏(御所)の庭掃除にあたる小法師役がいて、幕末まで続き明治維新には士分格の扱いを受けたと云う。

大将軍神社
 延暦年間(782〜806)平安遷都の折りに皇城の四方に大将軍を祀ったうちの一つとされる。

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城安寺辻子

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 「城安寺辻子」は七軒町を三条通から南行して、長光町と南西海子町・北木之元町・進之町の境界(三条通東大路西入一筋目から南行する小道)を通貫して若松通に達している。辻子名は道の東側に城安寺が所在することによる。

Photo

 城安寺は黒谷浄土宗の寺。僧暦央の開基で伏見城内に建立され、伏見町に移った後、寛永6年(1629)現在地に移転したと云う。本尊の阿弥陀如来は惠信僧都の作と伝わる。

南西海子町の仁丹町名表示板

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 東大路三条に「西海子町」があるが、西海子は皀莢(さいかち)の当て字と云う。古くこの地の南の長田塚に皀莢の木があったのに因み、初め田の字名とし、次いで町名としたという。「南西海子町」の町名由来は、この「西海子町」の南にあたる町であることからくると云う。
 「北木之元町」の木之本町も皀莢の大木があったからと云い、「西海子町」と重複する由来をもっている。
 「進之町」は「進之」という旧耕地の字名を町名にあてたとする。

2013年10月11日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 3

 今回は、「櫓(矢倉)辻子」「かにが辻子」です。

櫓(矢倉)辻子

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 「矢倉辻子」は二町目を三条通から南下、大蔵寺の西側を経て現・若竹町を通貫して若松通に至る小道。
 また、縄手通(大和大路)の大黒町から東方へ若松町に至る一帯を矢倉の辻子入口と呼んでいたようです。

追補(2016.8.20)

 『京町鑑』の「知恩院古門前通 三吉町」の記載に「此町西の辻南へ行所を切通也新門前へ出る 叉北ヘ行ばやぐらのづし則三條通へ出る細道有」とあるのを見つけました。
 つまり、三条通と古門前通の間を通る辻子だとしていますから、若松通からまだ南に延びていたのです。
 次の写真は、古門前通から北を眺めています。

_01

 大黒町には、大和大路の東側に沿って四ヵ寺(西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院)があり、四軒寺と称していたと云う。その四軒寺の背後(東側)にあった畑地は俗に寺裏と呼ばれていたようで、明治4年ここに開町されたのが若松町と東側に隣接する若竹町なのです。

 なお、三条通の南側、大橋町と大黒町との境界辺りに、三条大橋を迂回するための車道が設けられていたそうです。橋の西詰め南側には現在もその跡が残り、その一部が川沿いをを南に下がり先斗町に至る小路となっている。牛馬の曳く車両がその重量のために橋を破損する恐れがあるので、鴨川の流れを渡ることになっていました。

車 道
 三条大橋西詰めを南に下がり、突き当りの手前を左に河原へと降りて行く。

Photo_11

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かにが辻子

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 「かにが辻子」は三町目を三条通から南行して、二町目と三町目の境界、二町目と教業町の境界を南に通貫していたようなのです。しかし、宝暦12年刊「京町鏡」には「此辻子、今往来人を通さず」と記されており、この時期には既に廃道となってしまっていたようです。
 位置的には、現在の花見小路通の北部で三条の南の辺りということになるのではないかと思われるのですが、どうだろうか。

2013年10月 4日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 2

 今回は、「金臺寺辻子(こんだいじのずし)」と「綿屋辻子」です。

金臺寺辻子

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 「金臺寺辻子」は法皇寺町と七軒町、和国町と三町目の間(境界)を南北に通貫している小道で、孫橋通と三条通の間。
 「法皇寺町」の名は法皇寺の寺地であったことを由来とする。その法皇寺は明治11年に南禪寺境内に移されて、塔頭の一つである牧護庵となっています。
 辻子の東側には金臺寺があり、これが辻子名称の由来となっている。

金臺寺

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 「七軒町」は開町時には僅か七軒の民家しかなかったことから名付けられたと云うが、後に街道(東海道)左右のにある松並木から「松原町」としたこともあったようです。

七軒町の仁丹町名表示板

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綿屋辻子

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 「綿屋辻子」は七軒町の東方(東大路通三条西入一筋目)を三条通から北行して要法寺に至る小道で、三条通から孫橋通りへ通じている。

要法寺

 戦国時代の京都の町衆に大きな影響力を持っていた日蓮宗徒と叡山僧の間に起った「天文法華の乱」により、京都市街が焼失したとき法華21ケ寺がともに堺に難を避けていました。天文11年(1542)に洛内へ戻る勅許を得て、上行院と住本寺が合併して新たに要法寺として醒ヶ井通綾小路下ルの地に再建されますが、その後、宝永5年(1708)の大火で焼失したあと現在地に移転した。

 話は辻子から逸れて脇道に入ります。
 元プロ野球監督の野村克也氏は峰山高校を卒業して南海ホークスにテスト生として入団しますが、その切っ掛けはこの要法寺先代住職(貫主)の口利きがあったからと云うことのようです。(但し、真偽の程は未確認)

要法寺境内の池

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 ところで、毎年この池ではつがいのカルガモが子育てをして、梅雨の時期になると鴨川に引っ越しをします。その時は警察が交通規制をして多くの人々が見守る中、母ガモが小ガモ10羽ほどを引き連れて引っ越す微笑ましい様子が、テレビや新聞で報道されています。

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