辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 3
今回は、「櫓(矢倉)辻子」と「かにが辻子」です。
櫓(矢倉)辻子
「矢倉辻子」は二町目を三条通から南下、大蔵寺の西側を経て現・若竹町を通貫して若松通に至る小道。
また、縄手通(大和大路)の大黒町から東方へ若松町に至る一帯を矢倉の辻子入口と呼んでいたようです。
追補(2016.8.20)
『京町鑑』の「知恩院古門前通 三吉町」の記載に「此町西の辻南へ行所を切通也新門前へ出る 叉北ヘ行ばやぐらのづし則三條通へ出る細道有」とあるのを見つけました。
つまり、三条通と古門前通の間を通る辻子だとしていますから、若松通からまだ南に延びていたのです。
次の写真は、古門前通から北を眺めています。
大黒町には、大和大路の東側に沿って四ヵ寺(西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院)があり、四軒寺と称していたと云う。その四軒寺の背後(東側)にあった畑地は俗に寺裏と呼ばれていたようで、明治4年ここに開町されたのが若松町と東側に隣接する若竹町なのです。
なお、三条通の南側、大橋町と大黒町との境界辺りに、三条大橋を迂回するための車道が設けられていたそうです。橋の西詰め南側には現在もその跡が残り、その一部が川沿いをを南に下がり先斗町に至る小路となっている。牛馬の曳く車両がその重量のために橋を破損する恐れがあるので、鴨川の流れを渡ることになっていました。
車 道
三条大橋西詰めを南に下がり、突き当りの手前を左に河原へと降りて行く。
かにが辻子
「かにが辻子」は三町目を三条通から南行して、二町目と三町目の境界、二町目と教業町の境界を南に通貫していたようなのです。しかし、宝暦12年刊「京町鏡」には「此辻子、今往来人を通さず」と記されており、この時期には既に廃道となってしまっていたようです。
位置的には、現在の花見小路通の北部で三条の南の辺りということになるのではないかと思われるのですが、どうだろうか。
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