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2013年11月

2013年11月29日 (金)

これトマソン その4

 これは北白川にある某有名ラーメン店の近くで見かけたものです。

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 鉄扉が付いており出入りができる。施錠されているが・・・。
 何だろう 
 反対側から見るとー、

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 トーチカ まさかそんな馬鹿な! 
 監視用と銃眼を兼ねた小さな穴が空けてあるようにも見える。

 広辞苑ではトーチカを、
 「(点の意)コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地。火点。」としているけれども、この構築物は重火器の弾を食らうと簡単に崩壊しそうなチャチな代物で、堅固な防御陣地とは到底云い得ない。

 傍にクリーニング店があって人影も見えたが、正体が判明してガッカリしたくないので聞くのはやめた。

2013年11月22日 (金)

おっとっとーッ

 この樹、近寄ってよ〜く見ると

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 苦しそうに、痛々しそうに見えるけれども、なんとなく滑稽な感じもするな〜。
 電柱を支えているワイヤーが成長する樹木の幹や枝に食い込んでいます。
 ワイヤーが樹を落さんと(気絶させようと)締めているように見えるし、それに堪える樹がワイヤーを身の内に呑み込んでいるようにも見える。
 生体に備わった自然治癒力は、樹が自分自身で傷を治し異物を包み込んでしまうのですね。
 時として、ヒトがココロに受ける深い傷もこのように逞しく癒せると良いのですが。

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2013年11月15日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 8

 この「三条通沿いの辻子」シリーズは今回が最終回となります。

天王辻子

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 「天王辻子」は中之町を通貫していて、三条通から南行する粟田神社への参道を云う。
 粟田神社祭神の牛頭天王(八坂神社の祭神も牛頭天王)に因んで、この参道を「天王の辻子」と呼称していた。

鳥居に「感神院新宮」の額
(画像をクリックすると拡大します)

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 感神院は八坂神社のことで、明治維新の神仏分離以前は祇園感神院あるいは祇園社と称した。
 この粟田神社の名前もまた明治初年の神仏分離以後の呼称であり、幕末までは感神院新宮あるいは粟田天王社と称していた。
 神社石段下には旧東海道が通っており、京七口の一つ「粟田口」がこの辺りに設けられたこともあったようで、京都から旅立つ時に安全祈願をする人々が多かった。

粟田神社の祭礼

神輿巡行

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剣鉾巡行
 剣鉾は50Kg前後の重量になるそうで、6〜7mもある長い棹の上に1m程の鉾先を付け、その根元には金細工の透かし飾りと鈴が付けられている。
鉾差しは独特の歩行をすることにより、棹の金具に鈴を打ち当てて鳴らす。これは神輿の先払いで巡行路を祓い清めるそうです。

Dscn2017

 粟田神社の祭礼は旧9月15日(現10月15日)を中心におこなわれ、粟田祭の名で広く知られる。体育の日に行われる神幸祭・還幸祭では神輿のほか、各町から18本(元は17本)の鉾を出していたが、最近新しく一本が増えて19本となっています。現在では諸事情により祭礼で剣鉾差しが行われるのは5〜6本のようです。
 そのうち、東分木町守護の阿古铊鉾(あこだほこ)は神宝として重んじられ、旗に感神院新宮の五字を記す。なお、先に記したように感神院は祇園社(現八坂神社)のことですが、室町期には祇園祭が行えないときは粟田祭で祇園御霊会の替わりとしたと伝わるようです。

相槌稲荷

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 相槌稲荷は刀匠の粟田口宗近の勧請という。
 宗近は朝廷から名剣を打つよう命ぜられた。しかし、優れた相槌が居なければ鍛えることができないため稲荷明神に祈願したところ、神の使いの狐が相槌を勤めて名刀「小狐丸」を製作し、朝廷に献上することができたと云う伝承がある。天下の五剣の一つと云われる「三日月宗近」が現存し国宝に指定されているようです。また、祇園祭の山鉾巡行で先頭を行く長刀鉾の鉾頭を飾る大長刀は宗近の作で、祇園社に奉納したものですが現在では複製品を使っている。

《完》

2013年11月 8日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 7

 今回は、「衣屋辻子(ころもやのずし)」と「良恩寺辻子」です。

衣屋辻子(ころもやのずし)

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 「衣屋辻子」は今小路町の中程を三条通から南行し、八軒町と土居之内町の境界を経て堤町で三条通南裏に至る小道。古川町通の東側に位置する辻子です。
 「今小路町」の由来は、知恩院創建の折に住民をここに移し、旧地名を称したという。
 「八軒町」は、開町当初にあった人家が八軒であったことによると思われる。
 「土居之内町」は白川の土居(土手・堤)があったことによる。
 「堤町」の町名由来は、白川の西堤にあたることによる。

良恩寺辻子花頂辻子とも)

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 「良恩寺辻子」は、三条通岡崎路を南下して中之町、中之町と東町の境界を通貫する辻子で、良恩寺の北西角に至る小道。

良恩寺

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 岡崎通三条の交差点は、かつて同所にあった十禅師社に因んで「十禅師(じゅうぜんじ)の辻」と称したようです。そして、この十禅師の辻を南北に通っている道(現・岡崎通)は、昭和初期までは「広道」と称した。
 因に、良恩寺辻子の北側(広道の三条通から北方)は白川筋までの間を鳥居小路と云ったが、これは粟田神社(粟田天王社)の鳥居前だからと云う説と、鳥居小路を号した青蓮院の坊官(家臣)が居住したことに依ると云う説があるようだが、後説が有力とされる。また、広道の白川筋以北を車大路と呼び、鳥居小路と共に青蓮院の管理する道であったそうだ。

「広道」名称は今も生きていた
 このバス停の他にも、すぐ近くの郵便局は「広道郵便局」だった。

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2013年11月 1日 (金)

辻子 ー三条通沿いの辻子を巡るー 6

 今回は、金剛寺辻子 です。

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 「金剛寺辻子」は三条通北裏白川東の堀池町から金剛寺の西側を南行し、五軒町で三条通に至る小道。
辻子名の由来となった金剛寺は、奈良時代の高僧で多くの寺院の開基でもある行基の創建と伝わり、阿弥陀堂ともいう。

金剛寺

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 「堀池町」の名の由来は、この地が三条白川坊に付属する堀池殿の庭園池泉の跡であったことによるとされる。青蓮院は三条白川坊・粟田御所・東山御所とも呼ばれた。
 金剛寺は応仁の乱で荒廃したが、土地の住民等が花頂山麓に菰(こも)を敷いて本尊を置き、街道(東海道)を往来する旅人に喜捨を乞い、その浄財で粟田惣堂と呼ばれる仮堂を建立したと云う。
 菰を敷いた地が菰座町(こものざちょう)=現在の地下鉄「蹴上」駅近くにある小物座町という地名にその伝承を留めている。

堀池町の仁丹町名表示板

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 「五軒町」は粟田口の西端にあたり、東国街道(東海道)に沿って開けた枢要の地であったが、応仁の乱で荒廃して後は、僅か5軒の人家が街道に面してあったことが町名の由来と伝わるそうだ。

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