2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月

2013年12月28日 (土)

「路地」、そして「辻子」「突抜」  2の2

2. 路地 < 辻子・突抜 < 通り

 成立事情が通常の「通り」(あるいは道路・街路・往来)とは異なっているという点では、「路地(ろーじ)」と似ている。しかし、その後に通常の「通り」へと変化していったものに、「辻子(ずし)」と「突抜(つきぬけ)」と称する道があります。
 そこでついでながら、今回はその違いを簡単に見ておきます。

① 「辻子(図子)」

 「辻子」というのは、一つの通りと別の通りを繋ぐ形で新しく設けられた道で、通常の「通り」となる前の段階の「道」なのです。こうした新しく造られた辻子沿いに、新しく家が立てられて家並が形成されてゆくことになります。
 辻子の成立がこうしたものですから、現存する膏薬辻子・慈眼庵辻子(いずれも約2m)などは、車の通れないような細い道で生活道路となっている一方、入江辻子(新町通の上立売町と中御霊図子町の間)や桜井辻子(智恵光院通の五辻・今出川間)などのように今では大通りの一部となってしまっているものもあります。

《膏薬辻子》
 上の方の写真は、以前に辻子シリーズの一編として記事にした当時の様子です。
 下の写真は、現在の様子です。辻子の名称とその由来が珍しく、少なからず観光客も訪れるため、敷石を敷いて綺麗な舗装になり、以前は木版工房「竹笹堂」と飲み屋だけであった店も増えています。神田明神も写真に見るようにお地蔵さんの祠のようだったのが、今では手前右手の奥まったところに遷座して立派になっています。

Photo_6

Photo_7

Photo_8

《入江辻子》
 道路の右手は同志社大学新町校舎、道路を挟んで向かい側に西面して瓦屋根の門と土塀が見えますが、辻子の名前の由来となっている三時知恩寺で、元は入江内親王の御所と称する尼寺。

Photo_9

 辻子は記録に残っているものも含めると、150〜200ヶ所を数える程の辻子があるようなのです。その中でも極めて多くが集中しているのは、上京区の一条通以北、烏丸通以西、智恵光院通以東の一帯です。
 その理由は、主に京都の地形的条件が影響しており、平安京造都から一世紀も経たない頃から徐々にこの一帯に集中して行くことになったのですが、クドくなりますので説明は省略します。興味を持たれる向きには、当ブログ中の「辻子(図子)について」('12.1.27)をご覧ください。

②「突抜(つきぬけ)」

 「突抜」は、既存の通りを新しく延伸することにより、その先にある別の通りへ繋いで作られた道なのです。道の無いところを突き抜けて作られたことが名称の由来となっているのでしょう。これもまた以前の記事『「突抜」について』('12.5.2)をご覧いただければ幸いです。
 なお、「突抜」の現在は、町名や通り名となっているもの、全く異なる名称の通り名となっているものなどがあります。

《六角越後突抜町》

Photo_10

 と云うことで、今回の記事は「路地」から外れてしまいましたが、今後、市内のあちこちにある無数の路地の中から、気持ちを惹かれたものを取りあげて、折々に記事としてみたいと考えています。

2013年12月20日 (金)

「路地」、そして「辻子」「突抜」  2の1

1. 路地の発生

 京都市の中心部にはいまだに平安京の条坊制による街区や、豊臣秀吉が天正18年(1590)から翌年にかけておこなった大規模な京都改造による短冊形町割りが残っています。したがって、京都の町並みの区画は現在でも基本的には方形になっています。
 ところが、この方形の街区の場合、道路に面した家並の背後となる中央部分は空閑地となってしまい、利用が困難なものになっていました。
 そこで、この空閑地の有効利用やそこへの通行の便から、表通りにある家と家の間から中の空き地に入ってゆく細い通路が設けられ、これを路地(ろーじ)と称したのです。

Photo

 路地の奥は普通は行き止まり、つまり路地は殆どが袋小路になっています。内部は両側に数軒ずつの家が向き合っているもの、片側だけに家が並ぶもの、路地の突き当たりに数軒が横並び(T字型)に建っているもの、なかには一軒路地となっている場合もあります。
 しかし、路地には「コ」の字型や「L」字型になっていて、入り口とは違うところに通じているものや、路地の入口に面した通りとは反対側の通りへ出る通り抜け路地もあります。
 いずれにしても、路地というのはその中にある家に行くための通り道あるいは通路と云ったもので、一般の通り・道路とは異なっており私道的な面もあることから、無用の者が立ち入るのはちょっと躊躇させられる雰囲気があります。なかには、はっきりと「無用の者の立ち入りはお断り」という注意書きが路地入口に張られている場合もあります。

Photo_2

 「懐古庵路地」「安食(あじき)路地」「紋屋町路地」といった、ユニークであり、路地(ろーじ)としてはメジャーとも云えるものについては、かつて当ブログで記事にしたことがあります。
 しかし、京都市内にはその他にも、表通りとは違ってひっそりと落ち着いた雰囲気の、あるいは侘しげな佇まいのものなど、無数の路地があります。
 路地探索をした折りに、なんとなく気を惹かれたものについて記事にしてみたいと思っています。

《懐古庵路地》

Photo_3

《安食路地》

Photo_4

《紋屋町路地》

Photo_5

2013年12月13日 (金)

「西陣」そして「千両ケ辻」 2の2

2. 西陣織と「千両ケ辻」

 江戸時代の資料(『京都御役所向大概覚書』)によれば、「西陣」の範囲は「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通 町数百六拾八町」としているようです。なお、町数についてはしばしば分離・統合しているため、定かではないものの概ね160町前後であったらしい。
 註:『京都御役所向大概覚書』とは、京都町奉行所が支配する地域の状況と権限についての覚書で、奉行所役人の手引書として作成されたもと見られ、享保2年(1717)頃の編集とされる。

Photo

 西陣の中心となったのは、糸屋八町と呼ばれた分糸屋(糸問屋)の同業者町だった。
 これらの糸屋町は大宮今出川を中心とする一帯に集中しており、八町を成すのは樋之口町・芝大宮町・観世町・五辻町・桜井町・元北小路町・薬師町・北之御門町で、分糸屋の数は元禄期の資料(「京羽二重織留」)に依れば合わせて40数軒があったと云う。これらの糸問屋から織屋へと糸は分けられ、織物に仕立てられていった。

 そして、製品は「西陣撰糸市場」に出されて取引された。この取引所は時代により所在地が変わっているようで、17世紀末の頃は寺之内通の猪熊町(現・大猪熊町)と猪熊東之町(不詳)辺りにあったようだが、19世紀に入り宝永2年(1705)には中筋通の中宮町・西亀屋町に移転したと云う。

「中宮町」と「西亀屋町」の仁丹町名表示板

Photo_2

Photo_3

 これら糸屋八町の集中する今出川大宮の交差点を「千両の辻(千両ケ辻とも)」と称した。
 これは糸屋町で商われる糸の価格が日々千両を超える程であったことが由来といわれる。

「千両ケ辻」説明板

Photo_4

 近代に入ってもこのような大量の糸取引が行われていたため、明治時代には多くの銀行支店がこの界隈に集中したようだが、その様子は昭和の半ば頃までは続いていたようです。
 日文研所蔵の地図データベース中「京都府京都市西陣局郵便区市内図[2]」昭和30年(1955)には、元伊佐町に三菱銀行・住友銀行・第一銀行・滋賀銀行、観世町に協和銀行、元北小路町に東海銀行、薬師町に三和銀行と合わせて7銀行の支店が存在していたことが見て取れます。しかし、現在ではいずれも存在していません。

昭和30年当時の「千両ケ辻」(現・今出川大宮の交差点)界隈地図
写真をクリックすると拡大して見やすくなります。

Jpg_2

現在の今出川大宮の交差点(「千両ケ辻」)界隈

Photo_5

2013年12月 6日 (金)

「西陣」そして「千両ケ辻」 2の1

1. 地名「西陣」の由来

 「西陣」地名の由来はよく知られるように、室町幕府の守護大名である山名および細川両氏が応仁元年〜文明9年(1467〜1477)の十年余りにわたり戦った応仁の乱に因んだもので、山名氏の西軍が堀川通上立下ル西入にあった山名宗全邸に陣を置いたことから、この一帯を「西陣」と呼称するようになった。

 応仁の乱勃発地碑(上京区御霊神社)

 文正2年(1467)畠山政長と畠山義就の間で家督争いから激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景と山名持豊(宗全)、政長方には細川勝元が加勢し、これが応仁の乱の発端となった。
そこに、将軍足利義政の後継争いも絡んで、東西両陣営に別れ全面戦争となった。

Photo

 山名宗全旧蹟碑(上京区山名町)

Photo

 ちなみに、室町時代に関する重要資料の一とされる『蔭涼軒日録』(相国寺塔頭鹿苑院の蔭涼軒主が記録した公用日記)というのがあり、その文明19年正月24日の条に「西陣辺」との記述が認められることから、応仁の乱後間もない頃には地名として定着していたことが知れるとのことです。

 京都市の西北部地域では、古代からすでに織物生産をおこなっていたようです。
応仁の乱を逃れて各地にいた織物関係の業者が乱後に再び戻ってきて、中世京都の絹織物生産の一方の中心となったのが大舎人座(おおとねりざ)といわれる人々が集住する西陣地域でした。

 なお、西軍陣営の山名宗全邸跡が「山名町」としてその名残をとどめている。
 この碑の建つ通りは「山名辻子」と称されたが、以前に辻子シリーズの内の一編「辻子 ー慈眼庵・石屋・山名の3辻子」として記事にしましたので、興味をお持ちの向きはご覧ください。

 山名辻子

Photo_3

 一方、細川氏の東軍は室町通今出川上ルの室町幕府の本拠「花の御所」に陣を置き「東陣」と呼んだ。
 西陣の大舎人座に対して、練貫座といわれる人達が集住したのがこの東陣の跡地にあたる地域なのですが、織り上げる白羽二重の色から白雲・白雲村と称したようです。
 しかし、やがて京都での絹織物の営業権は大舎人座が独占してゆくことになる。
 なお、「東陣」は「西陣」のように地名として残ることはなかった。

 室町幕府(花の御所)跡碑

Photo_4

 なお、この白雲の地は織物生産に必要な水が適さなかったため、移転した烏丸下立売(御所蛤御門)の辺り一帯を新在家と云った。それに対して旧地の白雲村を元新在家と称したと伝わる。

 仁丹町名表示板「元新在家町」

Photo_5

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »