「路地」、そして「辻子」「突抜」 2の2
2. 路地 < 辻子・突抜 < 通り
成立事情が通常の「通り」(あるいは道路・街路・往来)とは異なっているという点では、「路地(ろーじ)」と似ている。しかし、その後に通常の「通り」へと変化していったものに、「辻子(ずし)」と「突抜(つきぬけ)」と称する道があります。
そこでついでながら、今回はその違いを簡単に見ておきます。
① 「辻子(図子)」
「辻子」というのは、一つの通りと別の通りを繋ぐ形で新しく設けられた道で、通常の「通り」となる前の段階の「道」なのです。こうした新しく造られた辻子沿いに、新しく家が立てられて家並が形成されてゆくことになります。
辻子の成立がこうしたものですから、現存する膏薬辻子・慈眼庵辻子(いずれも約2m)などは、車の通れないような細い道で生活道路となっている一方、入江辻子(新町通の上立売町と中御霊図子町の間)や桜井辻子(智恵光院通の五辻・今出川間)などのように今では大通りの一部となってしまっているものもあります。
《膏薬辻子》
上の方の写真は、以前に辻子シリーズの一編として記事にした当時の様子です。
下の写真は、現在の様子です。辻子の名称とその由来が珍しく、少なからず観光客も訪れるため、敷石を敷いて綺麗な舗装になり、以前は木版工房「竹笹堂」と飲み屋だけであった店も増えています。神田明神も写真に見るようにお地蔵さんの祠のようだったのが、今では手前右手の奥まったところに遷座して立派になっています。
《入江辻子》
道路の右手は同志社大学新町校舎、道路を挟んで向かい側に西面して瓦屋根の門と土塀が見えますが、辻子の名前の由来となっている三時知恩寺で、元は入江内親王の御所と称する尼寺。
辻子は記録に残っているものも含めると、150〜200ヶ所を数える程の辻子があるようなのです。その中でも極めて多くが集中しているのは、上京区の一条通以北、烏丸通以西、智恵光院通以東の一帯です。
その理由は、主に京都の地形的条件が影響しており、平安京造都から一世紀も経たない頃から徐々にこの一帯に集中して行くことになったのですが、クドくなりますので説明は省略します。興味を持たれる向きには、当ブログ中の「辻子(図子)について」('12.1.27)をご覧ください。
②「突抜(つきぬけ)」
「突抜」は、既存の通りを新しく延伸することにより、その先にある別の通りへ繋いで作られた道なのです。道の無いところを突き抜けて作られたことが名称の由来となっているのでしょう。これもまた以前の記事『「突抜」について』('12.5.2)をご覧いただければ幸いです。
なお、「突抜」の現在は、町名や通り名となっているもの、全く異なる名称の通り名となっているものなどがあります。
《六角越後突抜町》
と云うことで、今回の記事は「路地」から外れてしまいましたが、今後、市内のあちこちにある無数の路地の中から、気持ちを惹かれたものを取りあげて、折々に記事としてみたいと考えています。