その4" />
2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« これトマソン その4 | トップページ | 「西陣」そして「千両ケ辻」 2の2 »

2013年12月 6日 (金)

「西陣」そして「千両ケ辻」 2の1

1. 地名「西陣」の由来

 「西陣」地名の由来はよく知られるように、室町幕府の守護大名である山名および細川両氏が応仁元年〜文明9年(1467〜1477)の十年余りにわたり戦った応仁の乱に因んだもので、山名氏の西軍が堀川通上立下ル西入にあった山名宗全邸に陣を置いたことから、この一帯を「西陣」と呼称するようになった。

 応仁の乱勃発地碑(上京区御霊神社)

 文正2年(1467)畠山政長と畠山義就の間で家督争いから激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景と山名持豊(宗全)、政長方には細川勝元が加勢し、これが応仁の乱の発端となった。
そこに、将軍足利義政の後継争いも絡んで、東西両陣営に別れ全面戦争となった。

Photo

 山名宗全旧蹟碑(上京区山名町)

Photo

 ちなみに、室町時代に関する重要資料の一とされる『蔭涼軒日録』(相国寺塔頭鹿苑院の蔭涼軒主が記録した公用日記)というのがあり、その文明19年正月24日の条に「西陣辺」との記述が認められることから、応仁の乱後間もない頃には地名として定着していたことが知れるとのことです。

 京都市の西北部地域では、古代からすでに織物生産をおこなっていたようです。
応仁の乱を逃れて各地にいた織物関係の業者が乱後に再び戻ってきて、中世京都の絹織物生産の一方の中心となったのが大舎人座(おおとねりざ)といわれる人々が集住する西陣地域でした。

 なお、西軍陣営の山名宗全邸跡が「山名町」としてその名残をとどめている。
 この碑の建つ通りは「山名辻子」と称されたが、以前に辻子シリーズの内の一編「辻子 ー慈眼庵・石屋・山名の3辻子」として記事にしましたので、興味をお持ちの向きはご覧ください。

 山名辻子

Photo_3

 一方、細川氏の東軍は室町通今出川上ルの室町幕府の本拠「花の御所」に陣を置き「東陣」と呼んだ。
 西陣の大舎人座に対して、練貫座といわれる人達が集住したのがこの東陣の跡地にあたる地域なのですが、織り上げる白羽二重の色から白雲・白雲村と称したようです。
 しかし、やがて京都での絹織物の営業権は大舎人座が独占してゆくことになる。
 なお、「東陣」は「西陣」のように地名として残ることはなかった。

 室町幕府(花の御所)跡碑

Photo_4

 なお、この白雲の地は織物生産に必要な水が適さなかったため、移転した烏丸下立売(御所蛤御門)の辺り一帯を新在家と云った。それに対して旧地の白雲村を元新在家と称したと伝わる。

 仁丹町名表示板「元新在家町」

Photo_5

« これトマソン その4 | トップページ | 「西陣」そして「千両ケ辻」 2の2 »

仁丹町名表示板」カテゴリの記事

町名・地名の由来」カテゴリの記事

辻子(図子)・突抜」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« これトマソン その4 | トップページ | 「西陣」そして「千両ケ辻」 2の2 »