「西陣」そして「千両ケ辻」 2の2
2. 西陣織と「千両ケ辻」
江戸時代の資料(『京都御役所向大概覚書』)によれば、「西陣」の範囲は「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通 町数百六拾八町」としているようです。なお、町数についてはしばしば分離・統合しているため、定かではないものの概ね160町前後であったらしい。
註:『京都御役所向大概覚書』とは、京都町奉行所が支配する地域の状況と権限についての覚書で、奉行所役人の手引書として作成されたもと見られ、享保2年(1717)頃の編集とされる。
西陣の中心となったのは、糸屋八町と呼ばれた分糸屋(糸問屋)の同業者町だった。
これらの糸屋町は大宮今出川を中心とする一帯に集中しており、八町を成すのは樋之口町・芝大宮町・観世町・五辻町・桜井町・元北小路町・薬師町・北之御門町で、分糸屋の数は元禄期の資料(「京羽二重織留」)に依れば合わせて40数軒があったと云う。これらの糸問屋から織屋へと糸は分けられ、織物に仕立てられていった。
そして、製品は「西陣撰糸市場」に出されて取引された。この取引所は時代により所在地が変わっているようで、17世紀末の頃は寺之内通の猪熊町(現・大猪熊町)と猪熊東之町(不詳)辺りにあったようだが、19世紀に入り宝永2年(1705)には中筋通の中宮町・西亀屋町に移転したと云う。
「中宮町」と「西亀屋町」の仁丹町名表示板
これら糸屋八町の集中する今出川大宮の交差点を「千両の辻(千両ケ辻とも)」と称した。
これは糸屋町で商われる糸の価格が日々千両を超える程であったことが由来といわれる。
「千両ケ辻」説明板
近代に入ってもこのような大量の糸取引が行われていたため、明治時代には多くの銀行支店がこの界隈に集中したようだが、その様子は昭和の半ば頃までは続いていたようです。
日文研所蔵の地図データベース中「京都府京都市西陣局郵便区市内図[2]」昭和30年(1955)には、元伊佐町に三菱銀行・住友銀行・第一銀行・滋賀銀行、観世町に協和銀行、元北小路町に東海銀行、薬師町に三和銀行と合わせて7銀行の支店が存在していたことが見て取れます。しかし、現在ではいずれも存在していません。
昭和30年当時の「千両ケ辻」(現・今出川大宮の交差点)界隈地図
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現在の今出川大宮の交差点(「千両ケ辻」)界隈
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