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2014年1月

2014年1月31日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の4

3. 近世までの鴨東南部

 平安時代の後期になると院政から武家政治に変わり、政治の中心地も岡崎から他に変わりました。
 平氏が政治の実権を握ると、六波羅の地に平氏一族の政庁と一門の武家町ができます。この六波羅というのは現在の松原通辺りにある六波羅蜜寺を中心とする一帯で、平家武将の邸宅や政庁が所在したところが、「池殿町」「三盛町(旧泉殿町)」「門脇町」「多門町」などの町名として現在も名残を留めています。

多門町(仁丹町名表示板)
 「樋口小路」というのは平安地名で、現在の万寿寺通に相当します。

Photo_3

 しかし、その平氏も文治元年(1185)に滅亡します。
 次いで興った鎌倉幕府は、後鳥羽上皇が倒幕のために起こした承久の乱(1221年)で勝利を収めると、この六波羅の地を接収して六波羅探題を置いて、朝廷の監視や京都支配のため行政・治安の任に当たりました。

六波羅
 「六道の辻」から東方(清水寺方面)を望む

Photo_4

 しかし、元弘3年(1333)足利尊氏が六波羅を陥れるなどして、鎌倉幕府が滅びてしまうと、室町時代以後の六波羅は信仰と遊興の地へと変わっていったようです。
 そして、近世に入ると寛文9年(1699)には大規模な鴨川改修(寛文新堤築造)がおこなわれ、四条河原(鴨川と四条の交わる地域一帯の名称)をはじめ鴨川東岸は「洛外町続き町」として開発され、市街地化が進んでゆきます。
 なかでも、鴨川東岸四条通の南北には芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が軒を連ね、料理屋・茶店も建ち並び、川瀬には水茶屋・見せ物・遊戯小屋などで賑わいを見せていたようです。また、東山一帯の祇園社(八坂神社)や清水寺などへの参詣人や物見遊山の人々相手の水茶屋なども商いをしていたようです。

五条大橋から東山を望む
 右手建物は「南座」。(道路を挟み左手には「北座」があったようです)

Photo_5

 豊臣秀吉が方広寺参詣の便を図って、五条橋を五条大路(現・松原通)から五条坊門小路(現・五条通)に架け替えていますが、これも鴨川南部東岸の洛中化を促すこととなったかも知れません。

牛若丸と武蔵坊弁慶が出会ったのは現在の五条大橋ではありません。

Photo_6

 このように鴨東の南部は北部白川の地とは異なって、主には平安時代後期以降になってから開かれ、都市化の進んでいった地域であるように見受けられます。

(次回に続く)

2014年1月24日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の3

2. 近世までの鴨東北部 ー特に岡崎地域ー  2 

 岡崎の地にはまた、院政をおこなった白河上皇の院御所である白川南殿・白川北殿や、鳥羽上皇の押小路殿、後鳥羽上皇の岡崎殿などが建立・造営されて、六勝寺とともに競うように壮麗な建造物が美しさを誇っていたということです。
 現在の町名「岡崎北御所町」と「岡崎南御所町」は、岡崎殿の縁が今に伝わったものなのでしょう。

岡崎南御所町(仁丹町名表示板)

Photo

 しかし、やがて平氏の台頭により武家政治へと移行してゆくと、政治の中枢地は六波羅に移行してしまいます。そして、壮麗で栄華を極めた六勝寺も文治元・2年(1185・6)と二年連続して発生した大地震*、さらに加えて朝廷の権威下落により衰微してしまいます。
 * 二年連続の大地震について:小鹿島果(肥前国大村藩出身の高級官吏)『日本災異誌』には、次のような古記録を記しているそうです。
 文治元年の地震について、「8月13日地大震、屋舍壊、圧死多。宮城瓦垣、京中民舍或破損或顛倒、天台山堂舍廻廊等破損、其他処々堂場悉破壊顛倒、大地裂・・・連日地震不止。」
 翌2年の地震については、「8月22日京都地大震。洛外洛中堂舍塔廟人家大略顛倒。樹木山川皆変、死者多、其後連々不休四十余ケ日、人皆病悩、心神如醉。」

 そして、10年にも及んだ応仁の乱によりすっかり廃絶してしまい、岡崎を中心とする白河の地は再び農村と化してしまいます。
 日文研の所蔵地図データベースを見ると、江戸期を通じ幕末の頃まではそうした農耕地の状況が続いていたことが見て取れます。
 しかし、そこは四季の眺望もよいため、風光を愛でる文人墨客の別荘や富豪紳商が寮を定めた地であったたようで、富岡鉄斎の描く聖護院村略図には黒谷通を挟んで大田垣蓮月と鉄斎の家が描かれ、その近辺に高畠式部・税所敦子(歌人)、小田海僊(南画家)・中島華陽(丸山派画家)、貫名海屋(書家)、中島棕隠(儒者・漢詩人)など幕末から明治期にかけての文化人の住居が記されているそうです。

 ところが、幕末の文久期(1861〜1863)になると京都の情勢は急変してきます。
 元治元年(1864)には尊王攘夷派と公武合体派の間で禁門の変(蛤御門の変・元治甲子の変とも)が起こり、これが薩長戦争の発端となります。
 この禁門の変では京都市中の大半49,414戸を焼いたという元治の大火(鉄砲焼け・どんどん焼けとも)となりました。

御所の蛤御門に残る鉄砲玉の瑕

Photo_2

 この大火ために焼失した各藩の藩邸は新たに京屋敷の用地を岡崎一帯に求めました。こうして鄙びた近郊農村であったところへ次々と藩邸が建設されてゆきます。
 「改正京町御絵図細見大成」慶応4年(1868)刊を見ると、北は現在の春日上通・南は仁王門通、東は広道通(現・岡崎通)・西は二條新地の東方辺りにかけて、彦根ヤシキ・越前屋敷・秋田屋敷・加州屋敷その他にも多くの藩邸が描かれています。
 しかし、7年後の明治4年7月14日(1871)には、維新政府のおこなった廃藩置県によりこれら藩邸は全て取り壊されてしまい、またもや岡崎村一帯は田畑が広がるばかりの閑寂な田園に戻ってしまいます。
 その周辺の西=聖護院村、東=鹿ヶ谷・南禪寺門前の二村、北=吉田・浄土寺の二村、南=粟田口村には寺院が散在するものの、明治中頃までは市中に近接しているが殆ど開発されない近郊農村といった地域にとどまっていたようです。

(次回に続く)

2014年1月17日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の2

2. 近世までの鴨東北部 ー特に岡崎地域ー1 

 鴨東地域にあって、北部では浄土寺・吉田そして神楽岡(吉田山)、南部では鳥辺野(鳥辺山)など、古くは遊猟地や葬送地であったところが多いようです。
 そういった中で、鴨東北部の一部では鴨東南部より早く、平安時代初期から開けた地域だったようです。
 三条通から北、現在の北白川辺りまではかつて上粟田郷北白川と称され、中でものちに岡崎村(現・左京区岡崎)となる一帯は閑寂な景勝の地であったようです。
 「岡崎」は岡(神楽岡=吉田山)の突き出た崎(みさき)を意味し、吉田山の南部一帯の地名となっています。

 平安時代初期の9世紀中頃、天安元年(857)に人臣としては初の太政大臣となった藤原良房が、この地に白河別業(別荘)を建立して白河大臣と称された。以後、摂関政治を担った貴族・藤原氏一族の別荘や寺院が建立された地域でした。けれども、やがては「天狗の棲処」と云われる程に寂れた農村となったそうな。

 次に、平安時代後期になると摂関政治が衰退して、貴族社会から武家社会に変わる過渡期である院政時代に入ります。院政を始めた白河天皇は歴代藤原貴族の別荘の地を献上され、壮大な寺院法勝寺を建立して以後、天皇や皇后のために祈祷をおこなう五つの御願寺(尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)が建立されて六勝寺と総称される。「岡崎法勝寺町」など寺名にゆかりの町名が今も伝わっています。

六勝寺の小道

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白河院跡・法勝寺跡

 ここはもと藤原良房の別荘白河院であった地。藤原師実から寄進を受けた白河天皇がこの地に六勝寺の筆頭寺院となる法勝寺を建立した。
 大正になって呉服商の下村忠兵衛が当地を取得、庭園は七代目小川治兵衛(植治)の作庭で、京都市指定名勝。現在は公共宿泊施設となっている。

Photo_6

Photo

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(次回に続く)

2014年1月10日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の1

 かつての洛中(京都市中)東端は現在の寺町通までであり、鴨東地域(鴨川の東側)は洛外でした。
 元々は京都市中から外れていたこの地域が時代により大きく変化したことに、とりわけ京都の近代化に際しては檜舞台となった岡崎を中心とした一帯に興味を持っていました。
 それを数回分の記事にしてみたのが今回のシリーズです。

1. 鴨東と白川

 現在の「白川」の流路は、大津市山中町から山中越え(志賀越道)沿いに左京区北白川を経て、吉田山の北東から浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺の西部を流れて琵琶湖疎水の南禅寺船溜り跡に合流します。

南禅寺船溜り跡

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 そして、神宮道の疏水(鴨東運河)に架かる慶流橋の下流すぐ傍、仁王門橋から再び白川として分流したあと、概ね南西流して四条大橋北方の常盤町で鴨川に注いでいます。

疏水から分岐して再び白川に

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 しかし、かつての「白川」は三条通の北側、現在の三条通北裏(姉小路通の東部にあたる)から孫橋通を西流して、法林寺(檀王さん)の北側から鴨川に合流していたと云う。かつての流路にあたるところに地名「孫橋通」と「孫橋町」があるのは、鴨川への合流地付近に「孫橋」と称する橋が架けられていたことに由来するのでしょう。
 また、「大井手町」(三条白川橋西入る)の町名由来は、ここが元の白川の左岸にあたり、大きな井手(堤)があったことによると云われます。なお、白川の名称は流域が花崗岩を含む白い砂礫層からなり、川砂が白かったことによると云われる。

昔の白川の流路(三条通北裏の現・石泉院橋付近)

Photo_3

 そして、「白川」は近世の白川村の範囲を越えて流域一帯の地名にもなったが、白川流域の北部(旧愛宕郡上粟田郷)を北白川、南部(旧愛宕郡下粟田郷)を南白川・下白川と呼んだようです。したがって、鴨東地域(鴨川の東部)の殆どが白川と汎称されていたことになります。
 なお、平安時代には白河院御所が営まれ白河院政の政庁が所在したことから「白河」表記も使われた。
 その白川が合流する鴨川は、古代以来、洪水・氾濫を繰り返してきた流れの幅の広い川だったそうです。43年もの長期にわたり院政を敷いて、思いのままに権力を振るった白川法皇ですら、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と云ったとか。(「平家物語」卷1)

鴨川荒神橋から上流を望む

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 その鴨川以東は平安京の外側にあたり「洛外」とされたが、その平安京は造都から一世紀を経ずに朱雀大路(現在の千本通に該当)から西の右京域は衰退してしまいます。京都盆地の南西部は低湿地であったことから、人々が住むのに適さなかったからだそうです。
 そのため、右京域から移住した人々で人口の増えた左京域は一条通以北とともに、鴨川を越えて東(鴨東)の白河地域へも拡大してゆきました。
 けれども、その鴨東でも長い歴史の中で見ると北部と南部では、その開発・発展の歩みにはかなりの違いがあったようです。

(次回に続く)

2014年1月 3日 (金)

あけまして おめでとうございます

Jpg

日頃、このブログをご覧くださっている皆さま、
本当にありがとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

ところで、
毎週金曜日はブログの定例更新日と決めている日なのです。
そして今日は今年初めての金曜日。

ところが、言わでものことを正直に言いますと、
酒瓮斎は朝から祝酒を聞こし召し過ぎて酔眼朦朧。
ま、そう云ういうわけで、
早い話が、今年の初更新は延期とさせていただきます。
この事情 ご理解いただきたくお願いいたします

と、チビリチビリやりながらここまで書いてきて、
酔った頭でフッと考えたのですがー、
この言い訳の文で記事一本分に代えると云うのは無理かなー、
ソッかー、ヤッパリー、それは横着というものかー。

それでは次の更新にはココロを入れ替えてマジメにやります。
またいつもの、硬ーく地味ーな内容になると思いますが・・・。
それでは。

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