鴨東地域の移り変わり 7の3
2. 近世までの鴨東北部 ー特に岡崎地域ー 2
岡崎の地にはまた、院政をおこなった白河上皇の院御所である白川南殿・白川北殿や、鳥羽上皇の押小路殿、後鳥羽上皇の岡崎殿などが建立・造営されて、六勝寺とともに競うように壮麗な建造物が美しさを誇っていたということです。
現在の町名「岡崎北御所町」と「岡崎南御所町」は、岡崎殿の縁が今に伝わったものなのでしょう。
岡崎南御所町(仁丹町名表示板)
しかし、やがて平氏の台頭により武家政治へと移行してゆくと、政治の中枢地は六波羅に移行してしまいます。そして、壮麗で栄華を極めた六勝寺も文治元・2年(1185・6)と二年連続して発生した大地震*、さらに加えて朝廷の権威下落により衰微してしまいます。
* 二年連続の大地震について:小鹿島果(肥前国大村藩出身の高級官吏)『日本災異誌』には、次のような古記録を記しているそうです。
文治元年の地震について、「8月13日地大震、屋舍壊、圧死多。宮城瓦垣、京中民舍或破損或顛倒、天台山堂舍廻廊等破損、其他処々堂場悉破壊顛倒、大地裂・・・連日地震不止。」
翌2年の地震については、「8月22日京都地大震。洛外洛中堂舍塔廟人家大略顛倒。樹木山川皆変、死者多、其後連々不休四十余ケ日、人皆病悩、心神如醉。」
そして、10年にも及んだ応仁の乱によりすっかり廃絶してしまい、岡崎を中心とする白河の地は再び農村と化してしまいます。
日文研の所蔵地図データベースを見ると、江戸期を通じ幕末の頃まではそうした農耕地の状況が続いていたことが見て取れます。
しかし、そこは四季の眺望もよいため、風光を愛でる文人墨客の別荘や富豪紳商が寮を定めた地であったたようで、富岡鉄斎の描く聖護院村略図には黒谷通を挟んで大田垣蓮月と鉄斎の家が描かれ、その近辺に高畠式部・税所敦子(歌人)、小田海僊(南画家)・中島華陽(丸山派画家)、貫名海屋(書家)、中島棕隠(儒者・漢詩人)など幕末から明治期にかけての文化人の住居が記されているそうです。
ところが、幕末の文久期(1861〜1863)になると京都の情勢は急変してきます。
元治元年(1864)には尊王攘夷派と公武合体派の間で禁門の変(蛤御門の変・元治甲子の変とも)が起こり、これが薩長戦争の発端となります。
この禁門の変では京都市中の大半49,414戸を焼いたという元治の大火(鉄砲焼け・どんどん焼けとも)となりました。
御所の蛤御門に残る鉄砲玉の瑕
この大火ために焼失した各藩の藩邸は新たに京屋敷の用地を岡崎一帯に求めました。こうして鄙びた近郊農村であったところへ次々と藩邸が建設されてゆきます。
「改正京町御絵図細見大成」慶応4年(1868)刊を見ると、北は現在の春日上通・南は仁王門通、東は広道通(現・岡崎通)・西は二條新地の東方辺りにかけて、彦根ヤシキ・越前屋敷・秋田屋敷・加州屋敷その他にも多くの藩邸が描かれています。
しかし、7年後の明治4年7月14日(1871)には、維新政府のおこなった廃藩置県によりこれら藩邸は全て取り壊されてしまい、またもや岡崎村一帯は田畑が広がるばかりの閑寂な田園に戻ってしまいます。
その周辺の西=聖護院村、東=鹿ヶ谷・南禪寺門前の二村、北=吉田・浄土寺の二村、南=粟田口村には寺院が散在するものの、明治中頃までは市中に近接しているが殆ど開発されない近郊農村といった地域にとどまっていたようです。
(次回に続く)
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