鴨東地域の移り変わり 7の1
かつての洛中(京都市中)東端は現在の寺町通までであり、鴨東地域(鴨川の東側)は洛外でした。
元々は京都市中から外れていたこの地域が時代により大きく変化したことに、とりわけ京都の近代化に際しては檜舞台となった岡崎を中心とした一帯に興味を持っていました。
それを数回分の記事にしてみたのが今回のシリーズです。
1. 鴨東と白川
現在の「白川」の流路は、大津市山中町から山中越え(志賀越道)沿いに左京区北白川を経て、吉田山の北東から浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺の西部を流れて琵琶湖疎水の南禅寺船溜り跡に合流します。
南禅寺船溜り跡
そして、神宮道の疏水(鴨東運河)に架かる慶流橋の下流すぐ傍、仁王門橋から再び白川として分流したあと、概ね南西流して四条大橋北方の常盤町で鴨川に注いでいます。
疏水から分岐して再び白川に
しかし、かつての「白川」は三条通の北側、現在の三条通北裏(姉小路通の東部にあたる)から孫橋通を西流して、法林寺(檀王さん)の北側から鴨川に合流していたと云う。かつての流路にあたるところに地名「孫橋通」と「孫橋町」があるのは、鴨川への合流地付近に「孫橋」と称する橋が架けられていたことに由来するのでしょう。
また、「大井手町」(三条白川橋西入る)の町名由来は、ここが元の白川の左岸にあたり、大きな井手(堤)があったことによると云われます。なお、白川の名称は流域が花崗岩を含む白い砂礫層からなり、川砂が白かったことによると云われる。
昔の白川の流路(三条通北裏の現・石泉院橋付近)
そして、「白川」は近世の白川村の範囲を越えて流域一帯の地名にもなったが、白川流域の北部(旧愛宕郡上粟田郷)を北白川、南部(旧愛宕郡下粟田郷)を南白川・下白川と呼んだようです。したがって、鴨東地域(鴨川の東部)の殆どが白川と汎称されていたことになります。
なお、平安時代には白河院御所が営まれ白河院政の政庁が所在したことから「白河」表記も使われた。
その白川が合流する鴨川は、古代以来、洪水・氾濫を繰り返してきた流れの幅の広い川だったそうです。43年もの長期にわたり院政を敷いて、思いのままに権力を振るった白川法皇ですら、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と云ったとか。(「平家物語」卷1)
鴨川荒神橋から上流を望む
その鴨川以東は平安京の外側にあたり「洛外」とされたが、その平安京は造都から一世紀を経ずに朱雀大路(現在の千本通に該当)から西の右京域は衰退してしまいます。京都盆地の南西部は低湿地であったことから、人々が住むのに適さなかったからだそうです。
そのため、右京域から移住した人々で人口の増えた左京域は一条通以北とともに、鴨川を越えて東(鴨東)の白河地域へも拡大してゆきました。
けれども、その鴨東でも長い歴史の中で見ると北部と南部では、その開発・発展の歩みにはかなりの違いがあったようです。
(次回に続く)
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