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2014年2月

2014年2月28日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 1

地蔵堂のある路地

 町を歩いていると、路傍で見かける地蔵堂は多く、ほとんどの町内にあるほどです。
 通りすがりのお年寄りが、お地蔵さんに手を合わせて拝んでいる光景はよく見かけます。
 しかし、路地の奥にひっそりとまつられているお地蔵さんもありました。

Photo

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お稲荷さんを祀った路地

 また、地蔵堂ほどではないのですが、道端あるいは少し入り込んだところで祠をみかけることがあります。たとえば、粟田神社の近くにある相槌稲荷などです。
 けれども、路地の奥に祀られたお稲荷さんを見かけました。珍しいですね。
 ちなみに、祠(ほこら)は神を祀る小祠・小堂のことなのですが、「ほくら(神庫・宝倉)」が転訛したものとも云われるようです。

Photo_4

2014年2月21日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の7(最終回)

4. 近代以降の岡崎地域 3 

《博覧会等の開催と諸施設建設》

疏水べりから東方を望む

Photo

 都市基盤整備事業の進行と共に諸博覧会などが開催されます。そして、その跡地開発では美術館などの諸施設が建造されてゆき、いま見るような文化ゾーンを形成することになりました。
 それらを順を追ってあげてみます。

明治28年(1895) 
  第4回内国勧業博覧会
  大極殿・応天門(模造)と平安神宮建設(遷都千百年記念
  祭)
  京都電気鉄道が日本初の電車営業運転を始める

応天門(平安神宮)

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明治30年(1897) 
  京都博覧会(以後毎年開催)
明治32年(1899) 
  武徳殿(大日本武徳会本部)建設

武徳殿

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明治36年(1903) 
  京都市立動物園開園(皇太子嘉仁親王成婚記念=後の大正
  天皇)
明治37年(1904) 
  岡崎公園開園(内国勧業博覧会跡地)
明治42年(1909) 
  商品陳列館(現・国立近代美術館分館)
  京都府立図書館開館(京都御苑から移転)

府立図書館エントランス上部

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大正  4年(1915) 
  大典記念京都博覧会
  勧業館(昭和9年室戸台風で倒壊、同12年再建)
大正  5年(1916) 
  岡崎公園運動場開設
大正  6年(1917) 
  岡崎公会堂建設(現・京都市美術館別館)
   (ここで全国水平社の創立大会が開催された)

水平社創立大会記念碑

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大正12年(1923) 
  東宮殿下奉祝  万国博覧会参加50周年記念博覧会
昭和  3年(1928) 
  大礼記念京都大博覧会
昭和  8年(1933) 
  大礼記念京都美術館(現京都市美術館開館)

京都市美術館

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昭和35年(1960) 
  京都会館開館(第一ホール立替と全体の再整備のため休館
  中)
昭和61年(1986) 
  京都国立近代美術館開館

本シリーズは今回にて(完)

2014年2月14日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の6

4. 近代以降の岡崎地域 2 

②  近代化に向けた都市基盤の確立 ー後編ー 

 疏水の流路は大津三保ケ崎から第一トンネルを山科へ、さらに第二・第三トンネルを抜けて蹴上船溜りに至ります。
 そして、水は再びトンネルを経て南禅寺船溜りに出たあと,鴨川に至るがこの間を鴨東運河とも称した。

琵琶湖疎水記念館(南禅寺船溜り跡の畔に建つ)

Photo_2

 なお、舟運については、水とは別に蹴上げ船溜りと南禅寺船溜りの間の傾斜をインクラインに載せられて運ばれた。
 なお、疏水は鴨川手前(東側)に鴨川運河が開削されて宇治川伏見港まで至るが、その途中には、昭和2年墨染発電所が建設されている。

インクライン跡
   台車に乗せられた船はトンネルの先の南禅寺船溜まり(水面と噴水が見える)に着く。

Photo_11

インクラインの台車

Photo_13

 ちなみに、疏水分線は蹴上から南禅寺境内を水路閣経由で北上し、東山山麓を経て堀川に合流する。これは洛北の灌漑と水車による動力利用を目的としたが、上水道として利用するため昭和2年には松ヶ崎浄水場を完成している。

水路閣

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 さらに、ほぼ20年のちの明治41年(1908)から、「京都市三大事業」と命名された第二琵琶路疏水の建設、それを利用した上水道の整備、および道路拡築・電気軌道敷設に着手して、4年後の大正元年(1912)に竣工の祝賀式典がおこなわれます。
 そして、大正3年(1914)には夷川発電所が、疏水下流(鴨川運河)には墨染発電所が建設され、京都の都市基盤の基礎が出来上がっていったのです。

夷川発電所

Photo_4

(次回に続く)

2014年2月 7日 (金)

鴨東地域の移り変わり 7の5

4. 近代以降の岡崎地域 1 

①  近代化に向けた都市基盤の確立 ー前編ー

 明治2年の実質的な東京遷都により、天皇をはじめ公家・大商人は東京に引き移ってしまいます。千年来の都であった京都はすっかり沈滞して存亡の危機に瀕したことから、京都の復興をかけた改造事業が強力に進められることになります。
 先に見たように、明治初期には寂れた田園地帯に戻っていた岡崎一帯ですが、京都が起死回生の立て直しに向けた近代化の表舞台に躍り出て脚光を浴びることになります。

 明治4年(1871)勧業場を設置して殖産興業の推進を図るとともに京都博覧会を開催します。
 さらに、明治中葉からは本格的な開発を進めるために、インフラ整備の根幹となる事業が鴨東の岡崎と周辺一帯で集中的に、そして急速に進められて行きます。
 まず、京都市の事業として琵琶湖の水を京都に運ぶ運河=第一琵琶湖疎水が計画され、明治18年(1885)に起工式が行われて明治23年(1890)に完成します。この計画ははじめ、水車を動力源としての工業振興・舟による物資輸送・農業用水の確保・市内の用水増加などを目的としていました。

蹴上発電所

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旧九条山浄水場ポンプ室

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 しかし、主目的であった動力源の確保を水車利用の動力から、電気利用の動力へと計画が変更されます。こうして明治24年(1891)日本で最初の事業用発電所として蹴上発電所が完成し送電を開始しますが、これが京都の近代化・産業振興を支える基礎となり、工場の新設と電気鉄道の営業が始まります。

京都電気鉄道伏見線記念碑
  日本初の電気鉄道となります

Photo_10

 また、この間の明治21年(1988)、この疎水工事の進められていた岡崎を中心とした地域の7村が上京区に編入されます。それは、山科盆地を経て蹴上・南禅寺船溜りに至ったあと、疏水本線(鴨東運河)の流路となる南禅寺・岡崎・聖護院村。
 そして、疏水分線が流れることとなる鹿ヶ谷・浄土寺村。
 および、周辺の粟田口・吉田村でした。
 なお、翌明治22年(1989)には京都に市制が実施され、上京区(この鴨東一帯を編入している)と下京区の2区制となります。

仁丹町名表示板(追加です)
 疏水分線沿いの町に残っているものを幾つか載せておきます。
(時間的な都合で処理し切れず不揃いのままとなり、見辛いですがお許し願います) 

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