鴨東地域の移り変わり 7の5
4. 近代以降の岡崎地域 1
① 近代化に向けた都市基盤の確立 ー前編ー
明治2年の実質的な東京遷都により、天皇をはじめ公家・大商人は東京に引き移ってしまいます。千年来の都であった京都はすっかり沈滞して存亡の危機に瀕したことから、京都の復興をかけた改造事業が強力に進められることになります。
先に見たように、明治初期には寂れた田園地帯に戻っていた岡崎一帯ですが、京都が起死回生の立て直しに向けた近代化の表舞台に躍り出て脚光を浴びることになります。
明治4年(1871)勧業場を設置して殖産興業の推進を図るとともに京都博覧会を開催します。
さらに、明治中葉からは本格的な開発を進めるために、インフラ整備の根幹となる事業が鴨東の岡崎と周辺一帯で集中的に、そして急速に進められて行きます。
まず、京都市の事業として琵琶湖の水を京都に運ぶ運河=第一琵琶湖疎水が計画され、明治18年(1885)に起工式が行われて明治23年(1890)に完成します。この計画ははじめ、水車を動力源としての工業振興・舟による物資輸送・農業用水の確保・市内の用水増加などを目的としていました。
蹴上発電所
旧九条山浄水場ポンプ室
しかし、主目的であった動力源の確保を水車利用の動力から、電気利用の動力へと計画が変更されます。こうして明治24年(1891)日本で最初の事業用発電所として蹴上発電所が完成し送電を開始しますが、これが京都の近代化・産業振興を支える基礎となり、工場の新設と電気鉄道の営業が始まります。
京都電気鉄道伏見線記念碑
日本初の電気鉄道となります
また、この間の明治21年(1988)、この疎水工事の進められていた岡崎を中心とした地域の7村が上京区に編入されます。それは、山科盆地を経て蹴上・南禅寺船溜りに至ったあと、疏水本線(鴨東運河)の流路となる南禅寺・岡崎・聖護院村。
そして、疏水分線が流れることとなる鹿ヶ谷・浄土寺村。
および、周辺の粟田口・吉田村でした。
なお、翌明治22年(1989)には京都に市制が実施され、上京区(この鴨東一帯を編入している)と下京区の2区制となります。
仁丹町名表示板(追加です)
疏水分線沿いの町に残っているものを幾つか載せておきます。
(時間的な都合で処理し切れず不揃いのままとなり、見辛いですがお許し願います)
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