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2014年4月

2014年4月25日 (金)

看板いろいろ その1

磔磔(たくたく)

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 京都のいわゆる老舗ライブハウスです。
 1974年の開店当初は音楽喫茶だったようで、ライブをやりだしたのは翌1975年5月からとのことなので、今年は丁度創立40周年になるわけです。
 初期の2〜3年だけを見ても、錚々たる顔ぶれが見られます。やしきたかじん、憂歌団、南らんぼう、なぎら健壱、南佳孝、桑名正博・・・・・などなど。
 今年の5月は40周年記念ライブとしていろいろと多くのイベントがあり、2日間にわたって「細野晴臣コンサート2014 磔磔40周年記念ライブ」が催されるようです。
 ついでながら、「磔磔」の意味を大字典で調べて見ると「物の聲の形容」だそうです。つまり、ことこととたたく音や、鳥が羽ばたく音などを形容するようです。……ところが〜、「磔」一字だけになると、チョット怖じ気をふるうような意味があって、およそライブハウスの名前とは縁遠い感じです。


無二膏

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 腫れ物の膿を吸い出す塗り薬(膏薬)。
 切り傷にも効果があり、「世に二つとしてない妙薬」と云う意味で「無二膏」と名付けられたとのこと。
 近江の医師が徳川三代将軍家光の時代に京都に移り住み、御殿医を勤めながら庶民のために作ったのがこの膏薬だと云う。


松楳園

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 筆・墨・硯・紙を商う店ですが、この筆の看板は判りやすいですね。
 店名の字が「楳(うめ)」ではなく「煤(すす)」であれば、松の根を燻べて煤煙から採取したススから作った墨ということで、ズバリ商っている商品が判るのですが。


菜根譚

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 中国家庭料理の店。
 「菜根譚」というのは、中国明代の人である洪自誠の著作で、日本では江戸時代に翻訳されていたらしいです。
 その内容は、「処世訓」「箴言」「金言」「警句」などと云われる内容をもっており、著名人を含めて多くの人々が座右の書としてきたようです。
 野菜の根は筋が多くて固いものだが、それでもよく噛めば味わいのあるもの。
 「菜根譚」も読む人によって、またその時の心境や境涯によって、味わい深くて心を惹かれる章句に行き当たるようです。

2014年4月18日 (金)

暖簾いろいろ その2

錦と伊藤若冲

 錦小路市場商店街の高倉入り口東側に取り付けられています。
 これは看板?、それとも暖簾?、と云うよりも幕のようなものですが、名称は何と云うのでしょうか?
 この図柄は伊藤若冲の絵から採っています。

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 伊藤若冲は江戸時代中期に京都で活躍した画家。「京の台所」錦高倉市場にあった青物問屋枡源の長男であった。父が没したため22歳で家業を継ぐ。
 ところが、商売には全く関心が無く、30歳を過ぎてから狩野派で絵を学び始める。しかし、独自の絵を描いてゆくために塾を退いて、独学で絵の腕を磨いていったという。
 やがて、家族に任せていた家業は39歳のときに弟に譲ってしまい、経済面での援助を得ながら画業に専念する。
 74歳から84歳で没するまでの晩年は、深草の伏見稲荷南方にある石峰寺の傍に結庵して隠棲する。この石峰寺の境内には若冲の下書きをもとに石工が彫り上げた多くの羅漢像とともに、若冲の墓がある。
なお、伊藤家は幕末になって没落してしまったと云う。

清課堂

 江戸末期の天保9年に錫師として創業、錫・銀製品などの工芸品を製造販売している。
 立派で素晴らしいものですが、なかなか手を出し辛い高価なものが多いです。

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竹影堂

 古くから銀や針金などを使い、簪・笄・根付けなどの細かい錺金具(金属細工)製作を生業とする職人(錺職)がいて、この竹影堂もそうした家だったようです。
 小さい暖簾に見える「鐐」は工房若手メンバーの作品を展示販売するアンテナショップとのことです。

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2014年4月11日 (金)

辻子 ー市姫辻子ー

市姫辻子

 本塩竈町から若宮町にかけて通貫している。
 河原町通六条の一筋北を西進、市比賣神社の前を通り、金光寺と蓮光寺の間を左折(南下)、六条通を通り過ぎて福田寺と萬年寺の間を上ノ口通へと至る小路です。

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 上の写真、左手の建物二階に仁丹町名表示板が見えますが、次の写真がそれです。
本塩竈町の仁丹町名表示板

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市比賣神社

 辻子の名前は、市比賣神社に因むことは云うまでもありません。

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 なお、以前に「町名の由来と仁丹町名表示板  その1」(’11.9.7)で触れていた福田寺町(下京区高倉通松原下ル)の町名由来となった福田寺は移転して、市姫辻子の途中にあるこのお寺です。

福田寺そして福田寺町の仁丹町名表示板

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 辻子が通っている本塩竈町は、この辺り一帯の土地が平安時代の左大臣源融(嵯峨天皇の皇子)の邸宅である河原院址にあたり、河原院の塩竈の故事に因んで、明治4年(1871)に本塩竈町と命名された。
 この河原院は広大なものであったらしく、諸説があるものの北は五条通から南は六条通まで、西は富小路(現・麸屋町通)から東が鴨川を越えて現在の本町通に及んだとされる。

 本覚寺の源融を祀る鹽竃神社、上徳寺の山号が鹽竃山、白毫寺の別名が鹽竃太子堂であることからも、一帯が河原院跡であるとの伝承を窺うことができる。
 なお、秀吉の京都改造で市中に散在する多くの寺院を東京極大路(現・寺町)に集めたのですが、河原院跡も寺町となって俗に「下寺町」という呼称が起ったようです。

2014年4月 4日 (金)

辻子 ー竹林院辻子ー

 このところの記事が「路地」や「看板や暖簾」ばかりで、「辻子」を記事にすることが全く無かったことに気づきました。改めて調べてみると昨年の秋からこちら途絶えています。
 そんなことでいろんな記事の合間に、久しぶりで辻子についても記事にすることにします。
 さしあたり、私が入っている趣味のサークル例会が開かれる「ひと・まち交流館」(河原町通上ノ口上ル)の近辺、東本願寺別邸の渉成園=枳殻邸の北側一帯にまとまって存在する辻子を取り上げてみたいと思います。

竹林院辻子

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 この辻子は御影堂町平居町を通貫している。五条大橋西詰め南側から河原町通の竹林院前に至る道です。
 辻子名はいうまでもなく竹林院に因み、元和(1615〜24)の頃に五条通から開いてできた道だそうです。

竹林院

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 竹林院は浄土宗捨世派の寺院で、もと五条町尻小路(現在の松原通新町の薮下町辺りです)にあったが、豊臣秀吉の京都改造で現在地に移転させられました。天明・元治の大火による類焼、さらに明治以降の数度にわたる寺地収公で寺域が狭くなり昔の面影はなくなったという。

 御影堂町は明治2年、一般には御影堂と呼ばれた時宗の新善光寺境内地が上地されて、新たな町地となったのが町名の由来。この新善光寺は第二次世界大戦の末期に、五条通の拡張(強制疎開)により滋賀県長浜市に移転している。なお、富小路通五条下ルにある新善光寺は来迎堂と号し、浄土宗の寺で全く別。

 平居町は、宝暦年間に幕府の許可を得て、御土居跡に開かれた町です。
 五条橋西畔から高瀬川沿いに正面通へ至る流域一帯は、宝暦年間に許されて町地化されたあと、「五条新地(五条橋下)」と呼ばれる大規模な遊郭となった。
 昭和33年(1958)売春防止法が施行されて廃止された(ことになっていた)。しかし、「五条楽園」として営業していたのですが、平成22年(2010)に二度にわたり売防法違反で摘発され、営業を休止してのち、お茶屋組合も解散したようです。
 この五条新地についてはかつて、「京の郭(廓)その8 ー市内各所の新地4−」(’11.12.5)で少し取り上げました。しかし、その時に揚げていた写真の建物は無くなってしまい、次の写真にある「五条楽園歌舞練場」の看板もまた撤去されて無くなっています。

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平居町の仁丹町名表示板

 右傍の街灯カバーに京都市の略章が入っているのが珍しい

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