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2014年5月

2014年5月30日 (金)

辻子 ー楊梅辻子ー

楊梅辻子(やまもものづし)

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 東洞院通五条を南行すると一筋南を西に延びる道が楊梅通、さらに一筋南にこれも西に延びるのが鍵屋町通です。
 楊梅辻子は、この二つの通りの中程を東方へと延びる通りです。東洞院通から東へ高倉通までの間で、下京税務署の南側を宗仙寺に行き当たる小路です。
 東洞院通〜高倉通間には下坂通の別称がありますが、その由来は明らかではありません。
 貞享2年(1685)刊『京羽二重』には、「楊梅辻子(やまもものずし) 五條はし通(現・五条通)の壱町南 たかくら通にしへ入町」と記しています。
 福島町・大津町・堺町の三町(北側)と、和泉町・塗師屋町・富屋町の三町(南側)との境界をなしています。
 因に、楊梅通は平安京の「楊梅(やまもも)小路」に該当するそうです。

 ところで、現在の地図を見ると、楊梅通は東洞院通〜東中筋通間を東西に延びる通りです。しかし、前掲の『京羽二重』には、「楊梅通」を「ひがしは高倉通より にしへさめがい通迄」と記しています。
 したがって、楊梅通からは南にずれて位置していますが、楊梅辻子も楊梅通の一部ということが判ります。

 続・ところで、この楊梅辻子にある「塗師屋町」の民家に付いている仁丹町名表示板には、「下坂通間ノ町西入」と表記されています。
 地元では楊梅通よりも、「下坂通」という通称で通っているようで、表札に書かれた地名表示も「下坂通東洞院東入ル」と表記している家がありました。
 慶応4年(1868)刊『改正京町御絵図細見大成』を見ると、ここを「下坂丁」としています。しかし、今では「下坂町」と云う町は存在しませんが、通称名「下坂通」にその名残を留めているようです。

 続続・ところで、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』には、「魚棚通(現・六条通のこと)」の項で「此通魚や多し 故に是を下魚棚といふ 高倉より東洞院までを下坂といふ 由縁詳ならず」としています。
 魚棚通(六条通)を下坂とは雪踏屋町通(楊梅通)との混同があるように思われます。

「下坂通」の表示がある仁丹町名表示板
 表記の左半分が雨戸戸袋に隠れていますが、「下京區  下坂通間ノ町西入  塗師屋町」となっています。

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 因に、「楊梅通」は「雪駄屋町通」とも称されたのですが、その由来について、『京羽二重』には「此すじに せきだや有」、『京町鏡』にも「此通 今 雪駄屋多く住居す」としています。
 雪駄(雪踏とも書く)は、千利休が雪中で用いたのに始まるようです。
 竹の皮の草履の裏に獣の皮を付けた履物で、後には皮の上に金物を打ち付けた。京都の通り名の歌にある「雪踏 ちゃらちゃら 魚の棚〜」の「ちゃらちゃら」は、道を歩くときの金具の音です。

2014年5月23日 (金)

看板いろいろ その2

八百三

 宝永5年(1708)創業で、元は精進料理の仕出しを業としており、御所や寺院に出入りしていたと云う。
 精進料理に使用していた調味料としての柚味噌だが、評判が高まり需要も増大したため、柚味噌専門の商いに変わったとのこと。

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味噌・醤油

盛田合資会社 (愛知)知多郡小鈴谷で発祥。
 寛文5年(1665)清酒醸造を始める。のち、味噌・溜り・醤油の醸造も開始。
 明治に盛田合資会社を設立、昭和になって株式会社山泉商会が発足。
 「味噌溜」は味噌を熟成させたときに樽の底に溜った汁で、醤油のように調味料として使用した。
坪田醤油株式会社  兵庫県龍野市。
 慶応元年(1865)創業、大正4年(1915)に坪田醤油株式会社、昭和39年(1964)まるほ醤油株式会社と改称。
 創業の坪田家は海運でも財を成した資産家で、「まるほ」の「ほ」は「帆」らしいがよくは判らない。

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○△□(まるさんかくしかく)

古道具をはじめ生活雑貨、食器などを商っている店。
店名が普通の文字ではなく記号であることも、両脇の鬼瓦の飾り物も面白いです。

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蚊帳真綿蒲団商(浅井商店)

 今、この看板が付いている店は何故か布団屋ではありません。
 たいへん良い看板ですから、店が変わってしまっても気に入られて生き延びたのでしょう。

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2014年5月16日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 4

 次の路地もそれぞれ下京区です。

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2014年5月 9日 (金)

辻子 ー浄徳寺辻子ー

 この辻子、現在は存在していません。
 したがって定かではないのですが、現在の五条通(南側)の高倉通と富小路通の中程にあるファミレス「さと」の辺りから南行して、富小路通に東面する上徳寺(世継地蔵)や白毫寺の背後=西側を通り、西寄りに斜行する富小路通が六条通と交差する地点の少し北(現・東本願寺高倉会館・高倉幼稚園の東側辺り)へ通貫していたのだろうと考えています。

 昔は、東側の本塩竈町と、西側の堺町・富屋町の境界を為すような形で溝渠(ほり)が存在していたそうで、その畔にこの辻子があったようなのです。

辻子の北端であったと考えられるところ
 「さと」右側の細い通路、この辺りが本塩竈町と堺町の境界になります。辻子はここを南に通じていたと思われます。

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辻子南端
  現在の高倉幼稚園の東側辺りかと思われます。

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辻子南端方向を望む
  路地の突き当たりに見える建物は高倉幼稚園です。
  幼稚園の東側を五条通まで通じていた?

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 ところで先の「上徳寺」ですが、創建年月は不詳ながら、寺伝によれば徳川家康の帰依により僧伝誉一阿の創建。家康の娘泰誉院が、生母上徳院(名は於古知で家康妾)の菩提を弔うため敷地を拡張、堂宇を整備して、はじめ霊光院と称した寺名を上徳寺に改めたと伝えるようです。
 「浄徳寺辻子」の名称はこの上徳寺に因むのだろうと考えますが、さて如何なものでしょうか。
つまり、上徳寺→浄徳寺に転じた(転字)と考えました。(これは牽強付会でしょうか!?
 境内の世継地蔵は2mほどの石仏で、良い世継ぎを得られるとの縁起を伝え、多くの人々が参詣するそうです。

上徳寺(世継地蔵)

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2014年5月 2日 (金)

辻子 ーマンネンジノズシー

マンネンジノズシ(萬年寺辻子)」

 この辻子もやはり、本塩竈町を南北に通貫しています。(富小路通の五条通〜六条通間)

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 この辻子の南端は六条通になります。その六条通の南側角に萬年寺というお寺があるのですが、辻子の名前の由来はこの萬年寺に依っています。

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 この萬年寺、弘治元年(1555)の創建と伝わるようですが、その所在場所は詳らかではないそうです。
 大正4年(1915)刊「京都坊目誌」には「或は云今云萬年寺通烏丸の辺にあり」と記しているようです。「萬年寺通」と云うのは、萬年寺の前から西は醒井通までを云った(「京町鏡」)ようで、「六条通(魚棚通)」の別称でしたから、現在の北町(烏丸六条)の辺りにあったのでしょう。

烏丸通から六条通の西方を望む(車は通れない細い道です)
  すぐ傍に「北町」の仁丹町名表示板

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烏丸六条から東方を望む

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