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2014年6月

2014年6月27日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 1

 「山中越」というのは、平安時代以来、京から白川村を抜け、近江国の山中村を経て坂本に至る道でした。
 ところがこの道は時代を経るにしたがい、ルート・名称(呼称)ともに変遷しています。
 今回はそれらを簡単に見てゆきたいと思います。しかし、記事がいつもより長くなってしまい、3回に分割することにしました。(それでもなお、1回分が少し長くなったものもありますが)

1. 「志賀山越(しがのやまごえ)」

 「山中越」は、古代には「志賀山越」と呼ばれました。
 ルートは、「荒神口」を発して鴨川を東岸に渡り、現・近衛通の少し北にある斜め北東へ延びる道を、今の京大会館前を経て東大路通一条へ、さらに白川村から山中村、そして崇福寺・近江滋賀里へ出る道でした。

 *「荒神口」の名は、護浄院(荒神口通河原町西入)の本尊である清三宝大荒神に因みます。
 ここは京への街道の出入り口「京七口」の一つに数えられる交通上の要地でした。そしてそれは、吉田村を経て志賀(近江)へと通じていることから、「吉田口」あるいは「志賀道口とも称されました。
 (中世になると「今道越」への出入り口と云うことで「今道ノ下口」という名称も生じます)

護浄院(通称は清荒神)

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東大路通一条交差点の道標
 「右 さかもと  からさき  白川、 左 百まん扁ん、 宝永6年11月 沢村道範」と刻まれている。

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 前記のように、「志賀山越」の道は東大路一条から北東に進むのですが、現在は京都大学本部キャンパスの構内となっており道は寸断されている。キャンパスを北東側に抜けた所、住宅地の中を斜め北東へと延びる旧道をとると、今出川通の吉田神社裏参道前に出ます。
 そこから今出川通を斜め北に横切ったところが山越えの起点となる白川口です。

今出川通南側の道標
 吉田神社裏参道に出る手前の左手にこの道標があり、「すぐ 比ゑいさん 唐崎 坂本 嘉永2年」とあります。
 道標の右傍らには、二体の大きな阿弥陀如来座像が安置された祠があり、この石仏は鎌倉時代の作とされているようです。

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白川口
 今出川通北側にあって山越えの起点となる所で、「志賀山越」は祠の前を北東方向へ進む。

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北白川阿弥陀石仏(子安観音とも呼ばれる)
 白川口の祠に安置された石仏、これも鎌倉時代の作とされて高さは約2mあります。

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 ここ北白川の町から京都府道・滋賀県道30号線を登り詰めると、府県境を滋賀県側に入ったところ、すぐ右手に山中町集落への入り口があります。集落を抜ける旧道がかつての「志賀山越」です。
 山中町集落の東はずれから再び県道30号線に出ますが、そこを左手(県道の向かい側)に入って行く旧道が「志賀山越」で、平安期に所在した崇福寺(志賀寺・志賀山寺とも)を経て近江国見世(滋賀里)に出たのです。
 崇福寺は天智7年(668)天智天皇の創建になる寺で、十大官寺の一つとして貴人の参詣が多く平安初期まで栄えたとのこと、しかし度々の兵火で衰えてしまいます。
 この「志賀山越」が、謂わば山中越えの本道とも云える道で、京から崇福寺への参詣路として、また、近江への山越え道として利用されたのですが、平安時代の末期には寂れてしまったようです。

西教寺「阿弥陀如来座像」

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この阿弥陀如来座像は、山中町集落を通り抜ける山中越旧道に面して安置されている約2.5mの石仏で、鎌倉時代末期の作とされています。
この石仏は山中越え京都側入り口の「北白川阿弥陀石仏」、大津側入り口の「見世(滋賀里)の大ぼとけ」とともに、山中越えを通行する旅人の目標「一里塚」になっていたと云う。

2014年6月20日 (金)

看板いろいろ その3

鳩居堂

 香・線香・におい袋、和紙工芸品などの紙製品、筆・墨などの画用品の有名店。
 銀座五丁目の銀座中央通り(東京鳩居堂銀座本店前)の土地路線価は例年全国最高。ちなみに、公示地価最高は銀座四丁目の山野楽器銀座本店、基準地価最高額は銀座二丁目の明治屋銀座ビル。

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一の傳

西京漬専門店。
 二階では魚西京漬をメインにした懐石料理の食事ができる。

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御釜師大西清右衛門

 室町期以降400年ほど続く京釜師で、現在の清右衛門は十六代目とのこと。
 茶道三千家に出入りする十の職方(塗り師・指物師など)、千家十職(せんけじっそく)の一である釜師の家。
 工房には大西清右衛門美術館が併設されている。

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釜師高木治良兵衛

 三条釜座の高木治良兵衛。釜をはじめ、茶道具・花器などを製作している。
 鋳物市の集団であるいろいろな「座」が結成されていたが、他の座が衰退したあと釜座のみが存続した。

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2014年6月13日 (金)

暖簾いろいろ その3

塩 谷 
 麻問屋

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京料理なかむら
 店のWebサイトには「文化文政の創業」「一子相伝」など老舗をアピールする文言が並ぶ。

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大藤
 江戸末期の京都で宮中の料理方が「聖護院かぶら」を使った漬け物を考案、これが千枚漬けの初めとか。
 のち慶応元年、大黒屋藤三郎の名前から「大藤」の暖簾を上げたそうな。

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尾張屋
 蕎麦と蕎麦菓子

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彼方此方屋(あちこちや)
 リサイクル・オリジナルの着物(和服)や小物を商っているようです。

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2014年6月 6日 (金)

辻子 ー鼠辻子ー

鼠辻子(ねづみのづし)

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 この辻子は六条通の西洞院〜新町の間に当たり、北側の金屋町・上若宮町・蛭子町、南側の東側町・若宮町・艮町の境界をなしています。

 大正4年(1915)刊『京都坊目誌』によれば、「上若宮町」の町名由来を「因云 本町の南地尻は 東 新町 西 西洞院に通ず。此間を鼠ノ小路と字す」とするものの、詳細は詳らかではないとか。
 しかし、この「鼠ノ小路」の名称は、「鼠辻子」が縁由となっているように思われますが、どんなものでしょう。

上若宮町と若宮町の仁丹町名表示板
 辻子の傍で見かけたものです。
 この両町の名称は、若宮通六条下ル東側に所在する若宮八幡宮に由来しており、通り名もまた同じ。

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 この一帯は、寛永18年(1641)に島原(西新屋敷)へと移転するまで、六条柳町(六条三筋町)と称する遊郭でした。
 なお、幕府公認の遊里は二条柳町から六条柳町(新屋敷)に移転、さらに島原(西新屋敷)へと移転させられていますが、その間の事情については「花街・遊郭」シリーズ(2011年10〜12月)として記事にとりあげました。

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