「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 1
「山中越」というのは、平安時代以来、京から白川村を抜け、近江国の山中村を経て坂本に至る道でした。
ところがこの道は時代を経るにしたがい、ルート・名称(呼称)ともに変遷しています。
今回はそれらを簡単に見てゆきたいと思います。しかし、記事がいつもより長くなってしまい、3回に分割することにしました。(それでもなお、1回分が少し長くなったものもありますが)
1. 「志賀山越(しがのやまごえ)」
「山中越」は、古代には「志賀山越」と呼ばれました。
ルートは、「荒神口」を発して鴨川を東岸に渡り、現・近衛通の少し北にある斜め北東へ延びる道を、今の京大会館前を経て東大路通一条へ、さらに白川村から山中村、そして崇福寺・近江滋賀里へ出る道でした。
*「荒神口」の名は、護浄院(荒神口通河原町西入)の本尊である清三宝大荒神に因みます。
ここは京への街道の出入り口「京七口」の一つに数えられる交通上の要地でした。そしてそれは、吉田村を経て志賀(近江)へと通じていることから、「吉田口」あるいは「志賀道口とも称されました。
(中世になると「今道越」への出入り口と云うことで「今道ノ下口」という名称も生じます)
護浄院(通称は清荒神)
東大路通一条交差点の道標
「右 さかもと からさき 白川、 左 百まん扁ん、 宝永6年11月 沢村道範」と刻まれている。
前記のように、「志賀山越」の道は東大路一条から北東に進むのですが、現在は京都大学本部キャンパスの構内となっており道は寸断されている。キャンパスを北東側に抜けた所、住宅地の中を斜め北東へと延びる旧道をとると、今出川通の吉田神社裏参道前に出ます。
そこから今出川通を斜め北に横切ったところが山越えの起点となる白川口です。
今出川通南側の道標
吉田神社裏参道に出る手前の左手にこの道標があり、「すぐ 比ゑいさん 唐崎 坂本 嘉永2年」とあります。
道標の右傍らには、二体の大きな阿弥陀如来座像が安置された祠があり、この石仏は鎌倉時代の作とされているようです。
白川口
今出川通北側にあって山越えの起点となる所で、「志賀山越」は祠の前を北東方向へ進む。
北白川阿弥陀石仏(子安観音とも呼ばれる)
白川口の祠に安置された石仏、これも鎌倉時代の作とされて高さは約2mあります。
ここ北白川の町から京都府道・滋賀県道30号線を登り詰めると、府県境を滋賀県側に入ったところ、すぐ右手に山中町集落への入り口があります。集落を抜ける旧道がかつての「志賀山越」です。
山中町集落の東はずれから再び県道30号線に出ますが、そこを左手(県道の向かい側)に入って行く旧道が「志賀山越」で、平安期に所在した崇福寺(志賀寺・志賀山寺とも)を経て近江国見世(滋賀里)に出たのです。
崇福寺は天智7年(668)天智天皇の創建になる寺で、十大官寺の一つとして貴人の参詣が多く平安初期まで栄えたとのこと、しかし度々の兵火で衰えてしまいます。
この「志賀山越」が、謂わば山中越えの本道とも云える道で、京から崇福寺への参詣路として、また、近江への山越え道として利用されたのですが、平安時代の末期には寂れてしまったようです。
西教寺「阿弥陀如来座像」
この阿弥陀如来座像は、山中町集落を通り抜ける山中越旧道に面して安置されている約2.5mの石仏で、鎌倉時代末期の作とされています。
この石仏は山中越え京都側入り口の「北白川阿弥陀石仏」、大津側入り口の「見世(滋賀里)の大ぼとけ」とともに、山中越えを通行する旅人の目標「一里塚」になっていたと云う。
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