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2014年7月

2014年7月26日 (土)

夏の京都の風物詩 ー祇園祭ー その2

 前回(昨日)の記事では、今年の祇園祭で大きく変わった点を採り上げました。
 なので、内容的には前後することなりますが、今回は祇園祭の歴史を見ることにします。

長刀鉾

 平安時代以来のいわれを持つとされる長刀鉾。応仁の乱以前から巡行の先頭を切る慣しは今に引き継がれています。
 鉾頭を飾って青白く光っている大長刀は三条小鍛冶宗近の作といわれる。ただし、これはレプリカだそうです。

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祇園祭の起源

 祇園祭は八坂神社の祭礼ですが、八坂神社は近世までは祇園感神院、あるいは祇園社と呼ばれていたのですが、明治維新の神仏分離により現在の名称となりました。
 この祭礼は、疫神や怨霊を慰撫して安穏を祈願する神事の御霊会(ごりょうえ)に始まると云われます。
平安時代の貞観5年(863)、勅命により神泉苑で行われた御霊会が記録上の初見とのこと。なかでも、祇園御霊会、略して祇園会が特に盛大であったようです。

 貞観11年(869)都をはじめ全国的に疫病が大流行したとき、牛頭天王の祟りだということで、祇園社司(宮司)の卜部日良麻呂が天皇の命令により、その当時の国の数が66ヶ国あったことから、これに準じて二丈(約6m)の長さの鉾66本を立てて疫病退散をを祈願する神事を行ったのが祇園祭の始まりとされています。
 初期の頃の鉾は手で捧げるものだったようですが、後になって台に載せるようになり、さらには鉾車へと変化したそうです。
 初めの頃は疫病流行の時だけ行われていた祇園会ですが、元禄元年からは毎年行われるようになったとのことです。
 そして、現在のように町々から山鉾を出し、神輿渡御の行列に加わるようになったのは南北朝時代以後のことだと云われます。また、駒形提灯を飾り立てて祝う宵山、その時に氏子の家々で重代の家宝である屏風を開陳する屏風祭は、江戸時代中期の18世紀半ば頃からとされています。

 この間、保元・平治の乱、応仁・文明の乱、そして近世には禁門の変、近代の太平洋戦争などによる中断期を越えて今日に至る祇園祭は、かれこれ1150年近くの歴史を持つことになります。
 なお、現在のように前祭が7月17日、後祭が同24日となったのは、明治維新に太陰暦から太陽暦へ切り替えられてからのことであって、それ以前の前祭は6月7日、後祭は同14日でした。

粟田神社の剣鉾差し

 剣鉾を人が捧げ持っていますが、祇園祭初期の鉾もこれに近いものだったのでしょう。この剣鉾行列は祇園祭の山鉾巡行と同じで、神幸・還幸の際の神輿の露払いです。
 粟田神社は感神院新宮または粟田天王社と呼ばれたが、明治維新の神仏分離で現在の名前となった。
 室町時代、戦乱のために祇園祭が行えない時は、この粟田神社の祭を祇園御霊会の代わりとしたと伝わるようです。

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 応仁の乱で中断する以前、そして、明応9年(1500)の復興時、さらに、近世に入ってからという祇園祭の長い歴史を経るうちに、多くの山鉾に名称の変遷や消滅があったことを『祇園社記』から見て取ることができます。

1. 「山」から「鉾」に変わったもの(その逆も)
山ふしほく《山伏鉾》⇒ 山伏山、はちか山《はうか山?=放下山》⇒ 放下鉾、兼水山《菊水山?》⇒ 菊水鉾、など

2.  名称が変化してしまったもの
釜掘山 ⇒ 郭巨山、琴ハリ山《琴割山》⇒ 伯牙山、花ぬす人山《花盗人山》⇒ 保昌山、など

3.  消滅してしまったもの
たるまほく《達磨鉾》、いたてん山《韋駄天山》、うかひ舟山《鵜飼舟山》、など

                      おわり

2014年7月25日 (金)

夏の京都の風物詩 ー祇園祭ー その1

 祇園祭は、神田祭(東京)天神祭(大阪)とともに日本三大祭の一つですが、国の重要無形民俗文化財に指定されており、歴史・規模などでは日本最大の祭です。
 祇園祭の神事は7月中の一ヶ月をかけて行われますが、とりわけ大掛かりな行事は17日の前祭山鉾巡行、24日の後祭山鉾巡行でした。
 その祇園祭について、二回にわたる記事にしてみました。

今年の祇園祭 ー大きな変化ー

 祇園祭りの山鉾巡行、元々は7月17日の神幸祭神輿渡御(前祭)と同24日の還幸祭(後祭)の二度、神輿の露払いとして巡行していました。
 しかし、通行止めによる車の渋滞、山鉾巡行の観光化と巡行コースの変更その他の事情により、昭和41年(1966)以降は前祭と後祭を17日に一斉巡行することで行っていました。

 ところが、今年の山鉾巡行では大きく変わったことが二つあります。

一つ目は、山鉾巡行を本来の形である前祭と後祭の別巡行に戻しました。
 昨年までは前祭の山鉾巡行日である17日に後祭の山鉾も同時に巡行していたのを、今年は49年ぶりに24日の後祭巡行を復活させたのです。
 今年、巡行した山鉾の数は前祭(17日)は23基、後祭(24日)が10基、合わせて33基でした。

二つ目は、大船鉾(後祭では唯一の鉾)の復活です。
 大船鉾は、元治元年(1864)の「禁門の変(蛤御門の変とも)」の際の大火で焼失していました。これを150年ぶりに復興、昔と同じように後祭のしんがりを飾って巡行に参加しました。
 大きな水引と御幣、懸装品で飾られています。ところが、屏風絵などでは舳先を飾る「龍頭」の描かれたものが残っているようですが、その詳細が不明のため龍頭の復元には至っていないようです。

復興なった大船鉾

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『祇園社記』中における大船鉾に関する記録には、次のようにあるようです。
「七日  応仁乱前分」に、「しんくくわうくうの舟(「神功皇后の舟」の意)・四条と綾小路間」。
 また、応仁の乱で中断した後の明応9年(1500)復興時の記録には、「廿七番  四条とアヤノ小路ノ間也  船鉾なるべし」と。
 現在の名称とは少し異なりますが、いずれも大船鉾のことであり、神功皇后を祀った凱旋船鉾を巡行していたのです。
 神功皇后は、仲哀天皇の皇后で応神天皇の母とされる。新羅を討って百済・高句麗を支配下に入れたとされるが、伝説であるようです。

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山鉾の焼失と復活

 応仁の乱・天明の大火・そして禁門の変(元治の大火)などを経る中で、多くの山鉾が焼失と再建復活を繰り返してきました。
 太平洋戦争の後に復活を果たした山鉾には「菊水鉾」「綾傘鉾」「蟷螂山」「四条傘鉾」、そして今回の「大船鉾」と五基を数えます。

 しかし、かつて巡行した記録の残る「布袋山(姥柳町)」と「鷹山(衣棚町)」は、今に至るも復活を果たせずに焼山・休山となっています。
 「布袋山」の姥柳町は、応仁の乱以前は「浄妙山」を出していたのですが、これが骨屋町に移ったあと「布袋山」を出すようになったと云う。しかし、天明8年(1788)の大火で御神体の布袋尊と2童子を残して、曳山は焼失してしまいました。
 また、「鷹山」は、文政9年(1826)に大雨により懸装品が損傷して巡行への参加がかなわなくなり、さらに、禁門の変(元治の大火)では三体の御神体人形の頭・手足を残して焼失してしまい、その後復旧していないと云う。しかし、大船鉾のように復興を目指す動きがあるようです。

2014年7月18日 (金)

看板いろいろ その4

山内任天堂

 花札・トランプの製造業。
 現在は「任天堂」として、ゲーム機やゲームソフトの世界的な製造販売で知られる。
 しかし、この春頃に3年連続で営業赤字との報道がありました。
 2012年から販売している「Wii U」の販売不振が影響していると云われていました。
 「山内房治郎商店」として創業→「山内任天堂」設立→「丸福」設立→「丸福かるた販売」に社名変更→「任天堂かるた販売」に社名変更→「任天堂骨牌」に社名変更→「任天堂」に社名変更して現在に到る。

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網舟いづみや 

 以前、このブログの『「京七口」と街道 ー西国街道ー』シリーズを書くため、羅城門址(九条千本)をスタートして、桂川を渡ったところで見かけたものです。
 座敷をしつらえた屋形船で料理を供される。涼味を感じながら料理を食するので、「舟料理」は夏の季語になっています。

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本田味噌

 天保元年(1830)創業という室町通一条上ルの味噌屋。
 西京味噌で知られますが、私は簡単な酒のアテとしてもよい「ちりめん味噌」「山椒みそ」は割合気に入っています。(もちろん温かいご飯にも合います)

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眼科・外科医療器具  歴史博物館

 明治大正時代の診断機器・手術機器・処置治療用具など、今では使われていないものが陳列公開されている私設の博物館です。
 愛知県犬山市の明治村では、もっと大掛かりに日赤中央病院病棟・名古屋衛戍病院が移設され、医療・手術器具などが展示されてました。

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2014年7月11日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 3

前々回の「志賀山越」、前回の「今路越(今道越)」に続く最終回は、謂わば新道とも云える「白川越」です。

3.「白川越」白川馳道(しらかわのはせみち)・安土海道とも

そしていま一つのルートは、現・山中町集落の東はずれから北方へと進むルート、つまり、かつての「志賀山越」「今路越(今道越)」ルートではなくて、まっすぐに近江側へと下る新道です。
この道は安土・桃山時代になってから、織田信長が永禄13年(1570)頃に新設させたものです。
山中村から現・南志賀町の宇佐山(湖岸から1Km程のところ)に築いた宇佐山城を経て、琵琶湖へと通じる道でした。これは、現・県道30号線にほぼ重なるルートで、比叡平・田ノ谷峠を経て現在の大津市錦織町に出たようです。
宇佐山城が廃城となった後も、京と信長の居城である安土城との行き来には、この新道を経て湖上を船で渡ったようです。このことから「安土海道」とも呼ばれたとか。

そして、少し後の天正3年(1575)に、信長はこの新道を経て上洛するために、京都側の道普請をさせています。
この道筋は白川口から吉田村・田中村を経て、高野川と賀茂川の合流点の今出川假橋を西に渡り、出町の「今出川口」に至るものでした。
この新道について、宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志 第三』では、「今出川口」の項で、「京極(現・寺町通)ノ東 今出河通ノ北一丁ニ在 其ノ所ヲ出町ト云フ 此口正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村二至ル」と記しています。

また、元禄2年(1689)刊の『京羽二重織留』巻之一では、この新道を「白川馳道(しらかわのはせみち)」とし、「今  京極今出川口より白河村に至まで  所々道を挟みて並木の松のこれり  これいにしへの道なり」と記しており、当時は所々にまだ松並木が残っていたようです。

賀茂川と高野川の合流点
 かつて「今出河口假橋」が架けられたところ。
 左手の橋が鴨川に架かる現「出町橋」、右手は高野川に架かる現「河合橋」です。
 その出町橋の左手(西側)の出町桝形辺りに「今出川口(大原口とも)」が設けられていたようです。

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現在の出町
 かつて「今出川口(大原口)」があった出町(桝形)から東方を望む。
 前方に見える橋は賀茂川に架かる出町橋、見えないがその向こう側には高野川に河合橋が架かっている。

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ちなみに、前掲書の「今出河口假橋」の項には、「賀茂河高野河ヲ跨 田中村従リ之ニ掛ル板橋也」とあるので、現在の出町橋と河合橋とほぼ同じ位置に板の仮橋が架けられていたのでしょう。
その架橋費用については「橋料ハ 高野八瀬大原等 此橋往来ノ村々之ヲ出ス」となっています。そして、「今出川口」の別称「大原口」は、このように大原方面への出入り口でもあったことによるのです。

突然、「東今出川通」について
織田信長が整備させた新道「白川馳道」の、「今出川口假橋」東詰め(現・叡山電鉄「出町柳駅」前辺り)から百万遍へ出て、白川口の子安観音に至る間、これが「東今出川通」の原型となったのでしょう。(「京羽二重織留」にいう松並木はこの間にあった)
そして、近世までの今出川通東端は京極大路(現寺町通)東の鴨河原まででした。近代になって昭和6年に賀茂大橋が架橋されて後、その東側に市電が敷設されて新たな東今出川通となったのです。
なので、かつての東今出川通(「白川馳道」)のうち、河合橋東岸から叡山電鉄出町柳駅を経て百万遍交差点に至る間については、謂わば旧・東今出川通となってしまいました。

旧・東今出川通
 叡山電鉄「出町柳」駅前から東方を望む

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 旧今出川東端の百万遍交差点手前(遥か先の山には大文字の「大」が見える)

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《田中関田町の仁丹町名表示板》
 「東今出川通」表記にご注目!
 旧・東今出川通に面して設置されていました。ところが、今回の記事を書くために改めて歩いてみたところ、この表示板は姿を消していました。

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以上でこのシリーズは終わりです。

2014年7月 4日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 2

 前回の「志賀山越」に続いて、今回はその支道とも云える「今路越(今道越)」です。

2.「今路越(今道越)」(いまみちごえ)

 「志賀山越(しがのやまごえ)」が廃れたあと、中世になると、これに代わって近江へ越える道は「今路越」と呼ばれる山越え道でした。
 京七口の「荒神口」は中世になると、「今道越」の入り口と云うことから「今道ノ下口」という名称も生じました。
 山中町集落を通り抜け、東のはずれを現・県道30号線に出て県道向かい側の旧道(かつての「志賀山越」)を東北に進んでゆくと、やがて道は分岐点に辿り着きます。
 この分岐を道標にしたがって左手(北)に向かう「むどうじ道(無動寺道)」へと入ってゆきます。この道が「今道越(今路越)」と称された道の一部をなしていたようです。
 つまり「今道越(今路越)」は、比叡山延暦寺東塔にある塔頭の無動寺へと向かい、そこから北志賀を経由して東坂本に出たのです。
 (なお、比叡山東塔の無動寺は、苛酷な修行で知られる「千日回峰行」の拠点となっています。)

山中町の仁丹町名表示板
 山中町集落内の旧街道沿いにある民家でみかけました。
 上部のマークは《大礼服マーク》と称するようです。人物と枠は赤色で「仁丹」が黒色というように、京都の街角で見かけるものとは異なっています。
 ところが、奈良市に設置されたものは大津市のものと色使いが逆で、人物と枠は黒色、「仁丹」が赤色になっています。
 また、大阪市の場合は大津バージョンと奈良バージョンが混在しています。

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 前回の記事にあった崇福寺が廃絶したあと、その参詣路でもあった「志賀山越」も廃れてしまいます。そのあと、貴人達が参詣したのは比叡山延暦寺だったと云われます。
 その比叡山延暦寺参詣の初期ルートは、京からの西坂(雲母坂ルート)、そして近江の坂本から登る東坂(今路越ルート)であったようです。
 この東坂が「今道越(今路越)」だったのです。
 西坂=雲母坂は、修学院の林丘寺の東側を音羽川沿いに比叡山延暦寺東塔の西谷に至る道です。なお、延暦寺東塔から近江の穴太(あのお)へと出る道は「白鳥越」または「古道越」と称されたようです。

 「今道越」は、中世(室町期)までは京と近江を結ぶ主要道路の位置にあったのですが、織田信長が新路(次回の記事をご覧ください)を拓かせて、従来の道の通行を禁じたことでその役割を終えます。

 なお、書物を見ていると平安末期・戦国期・近世にかけて、京から近江へ抜ける主要な山越えの道としては他にも、浄土寺・鹿ヶ谷・如意ヶ岳から長等山・三井寺を経て近江に通じる「如意越」、四宮(山科)から三井寺に出る「小関越」、五条橋口から小松谷・清閑寺山と阿弥陀ヶ峰の谷あいを通って山科に至る「渋谷越(汁谷越)」で東国道(東海道)に入る道、今熊野から勧修寺に出て東国道へ入る「滑石越(醍醐道)」など色んな道があったようです。

 

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