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2014年7月 4日 (金)

「京七口」と街道 ー山中越(やまなかごえ)ー 2

 前回の「志賀山越」に続いて、今回はその支道とも云える「今路越(今道越)」です。

2.「今路越(今道越)」(いまみちごえ)

 「志賀山越(しがのやまごえ)」が廃れたあと、中世になると、これに代わって近江へ越える道は「今路越」と呼ばれる山越え道でした。
 京七口の「荒神口」は中世になると、「今道越」の入り口と云うことから「今道ノ下口」という名称も生じました。
 山中町集落を通り抜け、東のはずれを現・県道30号線に出て県道向かい側の旧道(かつての「志賀山越」)を東北に進んでゆくと、やがて道は分岐点に辿り着きます。
 この分岐を道標にしたがって左手(北)に向かう「むどうじ道(無動寺道)」へと入ってゆきます。この道が「今道越(今路越)」と称された道の一部をなしていたようです。
 つまり「今道越(今路越)」は、比叡山延暦寺東塔にある塔頭の無動寺へと向かい、そこから北志賀を経由して東坂本に出たのです。
 (なお、比叡山東塔の無動寺は、苛酷な修行で知られる「千日回峰行」の拠点となっています。)

山中町の仁丹町名表示板
 山中町集落内の旧街道沿いにある民家でみかけました。
 上部のマークは《大礼服マーク》と称するようです。人物と枠は赤色で「仁丹」が黒色というように、京都の街角で見かけるものとは異なっています。
 ところが、奈良市に設置されたものは大津市のものと色使いが逆で、人物と枠は黒色、「仁丹」が赤色になっています。
 また、大阪市の場合は大津バージョンと奈良バージョンが混在しています。

_01_6

 前回の記事にあった崇福寺が廃絶したあと、その参詣路でもあった「志賀山越」も廃れてしまいます。そのあと、貴人達が参詣したのは比叡山延暦寺だったと云われます。
 その比叡山延暦寺参詣の初期ルートは、京からの西坂(雲母坂ルート)、そして近江の坂本から登る東坂(今路越ルート)であったようです。
 この東坂が「今道越(今路越)」だったのです。
 西坂=雲母坂は、修学院の林丘寺の東側を音羽川沿いに比叡山延暦寺東塔の西谷に至る道です。なお、延暦寺東塔から近江の穴太(あのお)へと出る道は「白鳥越」または「古道越」と称されたようです。

 「今道越」は、中世(室町期)までは京と近江を結ぶ主要道路の位置にあったのですが、織田信長が新路(次回の記事をご覧ください)を拓かせて、従来の道の通行を禁じたことでその役割を終えます。

 なお、書物を見ていると平安末期・戦国期・近世にかけて、京から近江へ抜ける主要な山越えの道としては他にも、浄土寺・鹿ヶ谷・如意ヶ岳から長等山・三井寺を経て近江に通じる「如意越」、四宮(山科)から三井寺に出る「小関越」、五条橋口から小松谷・清閑寺山と阿弥陀ヶ峰の谷あいを通って山科に至る「渋谷越(汁谷越)」で東国道(東海道)に入る道、今熊野から勧修寺に出て東国道へ入る「滑石越(醍醐道)」など色んな道があったようです。

 

 

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