夏の京都の風物詩 ー祇園祭ー その2
前回(昨日)の記事では、今年の祇園祭で大きく変わった点を採り上げました。
なので、内容的には前後することなりますが、今回は祇園祭の歴史を見ることにします。
長刀鉾
平安時代以来のいわれを持つとされる長刀鉾。応仁の乱以前から巡行の先頭を切る慣しは今に引き継がれています。
鉾頭を飾って青白く光っている大長刀は三条小鍛冶宗近の作といわれる。ただし、これはレプリカだそうです。
祇園祭の起源
祇園祭は八坂神社の祭礼ですが、八坂神社は近世までは祇園感神院、あるいは祇園社と呼ばれていたのですが、明治維新の神仏分離により現在の名称となりました。
この祭礼は、疫神や怨霊を慰撫して安穏を祈願する神事の御霊会(ごりょうえ)に始まると云われます。
平安時代の貞観5年(863)、勅命により神泉苑で行われた御霊会が記録上の初見とのこと。なかでも、祇園御霊会、略して祇園会が特に盛大であったようです。
貞観11年(869)都をはじめ全国的に疫病が大流行したとき、牛頭天王の祟りだということで、祇園社司(宮司)の卜部日良麻呂が天皇の命令により、その当時の国の数が66ヶ国あったことから、これに準じて二丈(約6m)の長さの鉾66本を立てて疫病退散をを祈願する神事を行ったのが祇園祭の始まりとされています。
初期の頃の鉾は手で捧げるものだったようですが、後になって台に載せるようになり、さらには鉾車へと変化したそうです。
初めの頃は疫病流行の時だけ行われていた祇園会ですが、元禄元年からは毎年行われるようになったとのことです。
そして、現在のように町々から山鉾を出し、神輿渡御の行列に加わるようになったのは南北朝時代以後のことだと云われます。また、駒形提灯を飾り立てて祝う宵山、その時に氏子の家々で重代の家宝である屏風を開陳する屏風祭は、江戸時代中期の18世紀半ば頃からとされています。
この間、保元・平治の乱、応仁・文明の乱、そして近世には禁門の変、近代の太平洋戦争などによる中断期を越えて今日に至る祇園祭は、かれこれ1150年近くの歴史を持つことになります。
なお、現在のように前祭が7月17日、後祭が同24日となったのは、明治維新に太陰暦から太陽暦へ切り替えられてからのことであって、それ以前の前祭は6月7日、後祭は同14日でした。
粟田神社の剣鉾差し
剣鉾を人が捧げ持っていますが、祇園祭初期の鉾もこれに近いものだったのでしょう。この剣鉾行列は祇園祭の山鉾巡行と同じで、神幸・還幸の際の神輿の露払いです。
粟田神社は感神院新宮または粟田天王社と呼ばれたが、明治維新の神仏分離で現在の名前となった。
室町時代、戦乱のために祇園祭が行えない時は、この粟田神社の祭を祇園御霊会の代わりとしたと伝わるようです。
応仁の乱で中断する以前、そして、明応9年(1500)の復興時、さらに、近世に入ってからという祇園祭の長い歴史を経るうちに、多くの山鉾に名称の変遷や消滅があったことを『祇園社記』から見て取ることができます。
1. 「山」から「鉾」に変わったもの(その逆も)
山ふしほく《山伏鉾》⇒ 山伏山、はちか山《はうか山?=放下山》⇒ 放下鉾、兼水山《菊水山?》⇒ 菊水鉾、など
2. 名称が変化してしまったもの
釜掘山 ⇒ 郭巨山、琴ハリ山《琴割山》⇒ 伯牙山、花ぬす人山《花盗人山》⇒ 保昌山、など
3. 消滅してしまったもの
たるまほく《達磨鉾》、いたてん山《韋駄天山》、うかひ舟山《鵜飼舟山》、など
おわり
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