2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月

2014年8月29日 (金)

通り名のいわれ ー両替町通ー

「両替町通」は二カ所あります

一つは、伏見区の両替町通
 南北の通りで、南端の一丁目から北端の十五丁目まであります。北端の十五丁目は京都と伏見を結ぶ伏見街道につながっています。(伏見街道の北端は五条の本町一丁目です)

「両替町三丁目」
 メンソレータムの広告ですが、この町名表示板は伏見以外では見かけません。
 「世界之家庭薬」凄い意気込みですね。

Photo

もう一つは、中京区の両替町通
 北は丸太町通から南は三条通までの間で南北の道です。

「金吹町」(仁丹町名表示板)
 この町名、明治3年(1870)の命名です。その昔に金銀を冶工する銀吹き所・金吹き所があった、つまり銀座・金座があった名残でしょう。

Photo_2

 この二つの「両替町通」、いずれも銀座あるいは金座が置かれるとともに、多くの両替商が軒を並べていたことが名前の由来です。

 「銀座」は銀貨を鋳造・発行する役所です。初めは伏見と駿府(現・静岡市)に置かれたが、後には京都と江戸に移されました。やがて、大坂・長崎にも置かれたのですが、後には江戸の銀座に統一されました。

 伏見銀座跡

Photo_3

 「伏見銀座」は慶長6年(1601)に両替町通の両替町五丁目〜同八丁目の地に設けられました。そのため、この間は銀座一丁目〜銀座四丁目となったため、両替町は四丁目から九丁目へと飛んでいるのです。

 両替商旧跡(伏見・両替町三丁目)

_01

 「伏見銀座」は慶長13年(1608)、京都の両替町通二條と三條間の四町に移転して「京都銀座」となりました。すでに、伏見銀座設置の1年前、慶長5年(1600)この地に設置されていた金貨鋳造の「金座」と合併したのです。
 なお、ここには朱座も設けられていました。朱座というのは、幕府から朱・朱墨の製造と販売の独占権を得ていた座の一つだということです。
 『京雀』には、「二條通さがる  兩替町 同兩替町 同下町 同兩替町  右四町のあひだ兩替町に金座銀座の家々軒をならべたり  銀座の司大こくや常是(大黒屋常是)朱座の司この町にあり」と記しています。

 金座遺址

Photo_4

 銀座遺址

Photo_5

 この「京都銀座」のあった両替町通は、天正18年(1590)豊臣秀吉の京都改造で開かれたのですが、「両替町通」と云う名称が生じたのは慶長13年、伏見から銀座が移転してきて以降のことになります。

 ところで、「銀座」と云えば、東京でも有数の繁華街として有名です。全国各地にはこれを模して「○○銀座」と名付けた繁華街・商店街が沢山あります。
 しかし、銀貨の鋳造・発行所という本来の意味での「銀座」ということになれば、東京の銀座は後発組であって、伏見の銀座の方が本家筋にあたるのです。
 では、伏見に日本初の銀座が設けられたのは何故なのか。
 それは、徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利して間が無い頃で、慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれる以前の時期にあたります。当時の伏見は日本最大の城下町であり、中央政治を担っていた都市であったからなのでしょう。また、大坂はといえば、関ヶ原の合戦直後ということで、まだ旧豊臣方の本拠地であったため、そんなところへ設置することを家康は避けたのでしょう。
 ただし、「金座」が設けられて金貨の鋳造を始めたのは、京都よりも江戸の方が1年早い文禄4年(1595)のことでした。

 

2014年8月22日 (金)

通り名のいわれ ー麸屋町通ー

「麸屋町通」、元々は「富小路」なのです

 「麸屋町通」は、平安京造都で開かれた「富小路」に該当すると云うことです。
 紛らわしいのですが、現在の「富小路通」は天正18年(1590)に豊臣秀吉の京都改造により開かれたもので、全く別の通りなのです。

「麸屋町通」と「新麸屋町通」

 「麸屋町通」は初め、北は下立売通まで通っていたのですが、宝永5年(1708)の大火により、丸太町通以北については閉鎖されて皇宮の土地(御所)になります。そのため、その旧地あった民家は二条川東(二条通鴨川東部)の地に移転させられます。
 そして、旧地を偲ぶ気持ちからでしょうか、そこは「新麩屋町通」と呼称されることになりました。

尾張町の仁丹町名表示板 

_01

「麸屋町通」のいわれ

 『京町鑑』には「此通  むかしは麩商売の者多くありし故  町筋の號とす  今も三條邊に麩屋あり」と記し、『京羽二重』と『京雀』では「昔日  此筋に腐麺を賣者多かりしゆへに  今にふや町通と云う・・・」としている。
 また、『京雀』の「二條さがる  おはり町」の個所では「そのかみ  この町に素麵腐饂飩の粉を賣ける家おほかりければ  世に腐屋町通と云つたへし」と記しています。
つまり、「麩屋町通」のいわれは、当時は麩・豆腐・麺を商う店が多かったからだと云うのです。

 また、麸屋町通には白山通の別称があったのですが、これはこの通りに白山祠(白山神社)があったためだそうです。
 宝暦4年(1754)刊の『山城名跡巡行志』によれば、その当時の白山祠は二カ所あって、一つは白山通三條北の「下白山町」、一つは同通三条坊門(現・御池通)北の「上白山町」に在り、勧請は不詳。同通姉小路北の「中白山町」の白山祠は今は亡いと記しており、元は三カ所に在ったようです。
 しかし、現在では写真に見る「上白山町」の白山神社のみが残っています。

白山神社
 白山は石川・岐阜県境にあり、古くから白山信仰(山岳信仰)で名高い。
 この白山神社もこれとの関わりが深いということです。

_01

2014年8月15日 (金)

看板いろいろ その5

ヤンマートラクタ

 ♪ 僕の名前はヤン坊 僕の名前はマー坊
   二人あわせてヤンマーだ 君と僕とでヤンマーだ ♪
 子供の可愛い歌声で始まる「ヤン坊マー坊天気予報」は誰もが覚えているようです。ところが、55年間続いた放送も今年の3月末に全てのローカル局で終了したとのことです。

Photo_6

 明治45年(1912)に山岡発動機工作所として創業。
 農業機械用・小型漁船用・建設機械などの小型ディーゼルエンジンのメーカー。
 商標(ヤンマー)命名の経緯が面白い。豊作を象徴する「トンボ」を商標とする予定だったが、静岡県の醤油メーカーが既に登録していたため、営業担当者がトンボの王様ヤンマとすることを提案。経営者山岡のヤマを結びつけ、言いやすいように「ヤンマー」に決定したという。
 「ヤンマー農機株式会社」は旧社名。

マルテン醤油

 兵庫県龍野市
 会社設立は明治40年(1907)だが創立は寛政7年(1795)という。

Photo_7

三菱ホイスト

 「ホイスト」というのは、荷物を上げ下げしたり、移動運搬するクレーンのことのようです。

Photo_8

酒類の公定価格販売

 「マル公」は、はじめ第二次大戦前後に政府が経済統制を目的として、国営事業の専売物品について物価統制令で決定した公定価格のこと(を指すそうです)。
 戦後のインフレが収束するにしたがって、公定価格は徐々に撤廃されていったという。

Photo_9

多木肥料

 加古川市の多木化学株式会社の製造する肥料。
 日本で初めて人造肥料として骨粉を製造した会社のようです。
 同社ホームページによれば上部の図柄(神代鍬)は「太古創農の時代に田畑を耕すために使用されたスキを図案化したものです」とある。

Photo_10

2014年8月 8日 (金)

「宮内歯科医院」

 町歩き中に中京区で見かけたものです。

_01

1. この看板文字の揮毫者は誰?

 末尾の署名「碧題」は「碧が題する」と云ったような意でしょう。そこで、取り敢えずは素直に河東碧梧桐(俳人)ではないかと見当をつけてみました。
 そして、ネット検索してみたところ、ヒットした中にありました!
 「河東碧梧桐の画像検索結果」のウェブサイトがあって、河東碧梧桐(俳人)の書をはじめとする多くの画像の中に、ズバリこの看板の写真も出ています!!!
 この特徴のある直線的な書体が他にも沢山あります。そして、「大阪屋」旅館の看板など、屋号などと共に書かれている「碧題」の字体が全く同じなのです。
 河東碧梧桐は昭和2年に65歳で死去していますが、その生前に宮内歯科医院の当主である医師が、俳句の教えを受けるなどで懇意にしていたのでしょう。そうしたつながりで碧梧桐に揮毫してもらい、それを元に看板を作ったのではないでしょうか。

2. 河東碧梧桐について

 河東碧梧桐は、同郷の松山出身である俳人正岡子規の高弟でした。
 伊予中学校(現・松山東高等学校)の同級生であった高浜清(のちの高浜虚子)とともに、子規から俳句(とともに野球)を学び、子規門下の双璧と云われました。

  碧梧桐の夏の句から一句。
    《乳あらはに女房の単衣襟浅き

 しかし、碧梧桐は子規の死後、定型のスタイル(五七五と季語)を墨守する高浜虚子と対立、それにとらわれない立場で新傾向俳句を提唱しました。
 のちには、自由律の荻原井泉水に近づきますが、やがてここからも離れて、昭和8年に還暦記念祝賀会の席上で引退を表明してしてしまいます。

3. ことよせて正岡子規も

 正岡子規は明治17年(1884)9月、東京大学予備門に入学しています。
 予備門における第一学年成績一覧表の中には、正岡常規(正岡子規)の名前とともに同級生として、鹽原金之助(夏目漱石)、中川小十郎(立命館大学創立者)、南方熊楠(学問・思想のスケールの大きさから「知の巨人」とでも表現するほか無し)、山田武太郎(山田美妙)などの名前が見えます。
 ところがこの5人の中では、他の4人が及第なのに、正岡子規だけが不合格となっています。
 11教科の総得点・平均点ともに漱石に次ぐ成績なのですが、幾何学で落第点(32.5点)を取ったためでした。

*東京大学予備門とは
 東京大学の前身は、江戸幕府の開成所と医学所に遡るのですが、煩瑣になるのでこの説明は省略します。
 その東京大学に進学する者のために、予科教育機関として設けられていたのが、東京大学予備門(のちの第一高等学校)でした。
 『東京大学大学予備門規則』によると、一学年は9月11日〜7月10日、二期制になっており第1期が9月11日〜2月15日・第2期が2月16日〜7月10日。
 定期試験は毎期の終わり2月と7月の二度おこなわれ、時折おこなう臨時試験の評点を合算して評価することになっていたようです。

2014年8月 1日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 5

 路地は普通、入り口から真っすぐ進むと行き止まりとなっているものが殆どです。
 しかし、出入口が二カ所あって通り抜けることができる路地や、途中で折れ曲がっている路地などもあります。

通から別の通へ通り抜けられる路地

_01_2

_01_3

Lの字型の路地

L_01_2

Tの字型になっている路地

T6_01_2

コの字型になっている路地
 通を入ると別のところにある出口から元の通りに出られる

_01_5

 

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »