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2014年9月

2014年9月26日 (金)

通り名のいわれ ー黒門通ー

 黒門通は北端が元誓願寺通、南端はJR東海道線で行き止まりとなっている。しかし、その途中は二条城・西本願寺などがあって所々で途切れています。

「黒門通」の名前の由来

 通り名のいわれを『京町鑑』には、「黒門通といふは太閤秀吉公聚楽城の鐵門の在し通ゆへ號す  御池下ル町より新シ町と云  四條邊にて御太刀松通とも云  佛光寺邊にて竹屋町といふ」と記しています。
 つまり、聚楽第の鉄門があったことに由来していると云う。(古くは鉄のことを「くろがね」と称した)
 あわせて、「新シ町」「御太刀松通」「竹屋町」という別称があると記しています。
(なお、『山城名跡巡行志』では「新シ町」を「阿多羅志町』と当てている)

新シ町(仁丹町名表示板)
 表記中に黒門通の別称「新シ町」が見えます。

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 前掲書にはまた、御太刀松通について「四条下ル  下松町(現・下り松町)此町北東角人家のうらに一間半計の枯木一本有  傳云九郎判官義經  此松に太刀をかけ給ひたると也  又一説に堀川の御所といへりしも此邊なりとぞ 御館(みたち)の松といへるを書誤りて御太刀の松といひつたへ來れり」としている。
 そして、竹屋町については『京雀』『京雀跡追』で「此町には竹をあきなふ人多し」とする。

聚楽第について

 聚楽第は、天正15年(1587)に豊臣秀吉によって造営された。しかし、わずか8年後の文禄4年(1595)には破却してしまいました。
 平安京の大内裏のあった地は、中世になるとすっかり荒廃して「内野」と呼ばれる野になっていました。聚楽第は、この内野の東北部に築いた城郭でした。しかし、その規模は諸書で記述が異なっていて必ずしもはっきりしないようです。
 『山城名跡巡行志』では、「聚楽亭  東大宮  西朱雀(現・千本)南春日(現・丸太町)北一條  南北七町東西四町」とする。
 『京町鑑』も同じ範囲を記すとともに、「町數百二十町といふ此間を聚樂といひ地名に呼ぶ   今町の小名に舊名所々に殘れるのみ」としています。

聚楽廻中町(仁丹町名表示板)
 この一帯は聚楽第の南西部に当たり、聚楽廻(じゅらくまわり)とも称された。

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 少し長くなりますが、造営された聚楽第の様子を『京町鑑』から抜粋して引いてみます。
 「其構  四方三千歩の石の築垣山のごとく  楼門の固め鐵(くろがね)の柱  銅(あかがね)の扉  金銀をちりばめ  瑤閣星を錺り(かざり)  御庭には水石を畳  花木を植えさしめ造立し給ふ  結構譬うるに物なし  城外の四方に諸侯の第宅(やしき)をかまえ  樂を聚(たのしみをあつめ)觀樂(かんらく)を極め給ふによって  世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記し、関白秀吉の威勢を誇示して大層豪華なものであったことが判ります。

聚楽第址碑

Photo_2

 聚楽第の周辺一帯は秀吉に臣従する諸大名の屋敷町となっていました。その跡地は現在も町名としてその名残をとどめており、大名の名前が付く町名は20町程あるようです。
 以前、聚楽第絡みの記事で、諸大名の屋敷跡に因む町名を10町程あげたことがありました。今回はそれらを除いた3町の仁丹町名表示板の写真をあげておきます。

仁丹町名表示板
 甲斐守町は黒田甲斐守長政、左馬松町は加藤左馬助嘉明、飛騨殿町は蒲生飛騨守氏郷です。

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2014年9月19日 (金)

暖簾いろいろ その4

 これらの店はいずれも創業は江戸時代と称している

一保堂
 寺町通二条上ル
 著名な日本茶専門店で享保2年(1717)の創業で、創業者は近江出身のため初期の屋号は「近江屋」を号したと云う。

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二 傳
 姉小路堀川東入
 創業が宝暦7年(1757)の京料理の店
 初代の傳七と云う人が魚屋を開き、仕出し屋となってから二条城への出入りを許され、「二条城出入りの傳七」から屋号「二傳」になったと云う。

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河道屋
 姉小路御幸町西入
 享保年間の創業とか
 小麦粉に卵・砂糖を加えて焼いた菓子をボーロ(bolo)と云います。この店の、蕎麦粉を用いた菓子は「蕎麦ほうる」と称しており、蕎麦ボーロとは云っていません。
 系列に生そばの店「河道屋晦庵」もある

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春芳堂
  姉小路通烏丸東入
  安政年間の創業とか
  京表具・表装の店

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2014年9月12日 (金)

通り名のいわれ ー高倉通ー

「高倉通」と「新高倉通」

 「高倉通」は平安京が開かれた当時の「高倉小路」に相当すると云うことです。
 この通りも初めは麸屋町通と同じく、北は下立売通まで通っていたのですが、宝永5年(1708)の大火により、丸太町通以北が閉鎖されて皇宮(御所)の土地に入ります。
そ して、そこあった民家は二條川東(二条通鴨川東部)に移転させられ、旧地の通り名に因んで「新高倉通」と呼称されることになりました。「新麸屋町通」と同様に、やはり旧地を偲んでの命名だったのでしょう。
「 高倉通」の名称由来ですが、これについては詳らかではないようです。

 ところで、「高倉通」には「頂妙寺通(ちょうみょうじどおり)」という別称があり、このいわれは次のとおり。
 『京町鑑』には、「頂妙寺通といふ事は  天正年中迄  椹木町上ル  頂妙寺といへる日蓮宗の寺ありし故  號く」としている。
 『京雀』には、平安時代に初代関白となった藤原基経の別邸「高倉院」があったところへ、室町時代になってから頂妙寺が移されたと記しており。これが頂妙寺通の由来だとしている。

高倉院跡碑

 これは藤原氏別邸が高倉小路に所在したことから「高倉院」と呼ばれたもので、高倉院のあったことが高倉小路の名称由来ではないのです。

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頂妙寺

 ところで、この頂妙寺は文明5年の建立以来、高倉宮跡を含めて7・8回にわたって移転を迫られており、最後の移転は寛文年間に御所の大火があったため、御所の整備を機に現在地の二條川東(現・左京区大菊町)に移りました。

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頂妙寺の仁王門

 頂妙寺の山門は仁王門通に南面しており、その山門の少し奥手(北)にやはり仁王門通へ面して写真の仁王門が在る。このことが仁王門通の名前の由来となっているようです。

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 なお、大正4年(1915)刊の『京都坊目誌』では、仁王門通は頂妙寺移転の前からある通り名であって、岡崎の法勝寺の門がこの街に当たることから名付けられたとしているようです。しかし、法勝寺の西大門は二條大路に面していたと考えられているため、これが仁王門通のいわれとはならないだろうと見られています。

 

2014年9月 5日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 6

 今回の路地は上京区内でみかけたものです。

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 上の写真の路地は、多くの路地に見られるような行き止まりになっていません。出入り口が東堀川通と一条通の二ヶ所にあって逆L字型になっています。
 ところで、何に載っていたのかは失念したのですが、この路地を「国松辻子」としたものがあったのを覚えています。
追記:国松辻子は『京都の大路小路』(小学館)の、「革堂辻子」中の地図にありました。
 しかし、『京町鑑』『京羽二重』『京都坊目誌』など何点かの地誌にあたってみましたが、竪富田町には富田ノ辻子・だいうすの辻子の他に辻子は見当たりません。('16.11.20)

 位置的には、足利直義の建立になる「大休寺」の跡地の一部にあたるようですが、応仁の乱で焼失したあとは再建されることはなかったそうです。

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