2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 暖簾いろいろ その4 | トップページ | 暖簾いろいろ その5 »

2014年9月26日 (金)

通り名のいわれ ー黒門通ー

 黒門通は北端が元誓願寺通、南端はJR東海道線で行き止まりとなっている。しかし、その途中は二条城・西本願寺などがあって所々で途切れています。

「黒門通」の名前の由来

 通り名のいわれを『京町鑑』には、「黒門通といふは太閤秀吉公聚楽城の鐵門の在し通ゆへ號す  御池下ル町より新シ町と云  四條邊にて御太刀松通とも云  佛光寺邊にて竹屋町といふ」と記しています。
 つまり、聚楽第の鉄門があったことに由来していると云う。(古くは鉄のことを「くろがね」と称した)
 あわせて、「新シ町」「御太刀松通」「竹屋町」という別称があると記しています。
(なお、『山城名跡巡行志』では「新シ町」を「阿多羅志町』と当てている)

新シ町(仁丹町名表示板)
 表記中に黒門通の別称「新シ町」が見えます。

_01

 前掲書にはまた、御太刀松通について「四条下ル  下松町(現・下り松町)此町北東角人家のうらに一間半計の枯木一本有  傳云九郎判官義經  此松に太刀をかけ給ひたると也  又一説に堀川の御所といへりしも此邊なりとぞ 御館(みたち)の松といへるを書誤りて御太刀の松といひつたへ來れり」としている。
 そして、竹屋町については『京雀』『京雀跡追』で「此町には竹をあきなふ人多し」とする。

聚楽第について

 聚楽第は、天正15年(1587)に豊臣秀吉によって造営された。しかし、わずか8年後の文禄4年(1595)には破却してしまいました。
 平安京の大内裏のあった地は、中世になるとすっかり荒廃して「内野」と呼ばれる野になっていました。聚楽第は、この内野の東北部に築いた城郭でした。しかし、その規模は諸書で記述が異なっていて必ずしもはっきりしないようです。
 『山城名跡巡行志』では、「聚楽亭  東大宮  西朱雀(現・千本)南春日(現・丸太町)北一條  南北七町東西四町」とする。
 『京町鑑』も同じ範囲を記すとともに、「町數百二十町といふ此間を聚樂といひ地名に呼ぶ   今町の小名に舊名所々に殘れるのみ」としています。

聚楽廻中町(仁丹町名表示板)
 この一帯は聚楽第の南西部に当たり、聚楽廻(じゅらくまわり)とも称された。

_01_2

 少し長くなりますが、造営された聚楽第の様子を『京町鑑』から抜粋して引いてみます。
 「其構  四方三千歩の石の築垣山のごとく  楼門の固め鐵(くろがね)の柱  銅(あかがね)の扉  金銀をちりばめ  瑤閣星を錺り(かざり)  御庭には水石を畳  花木を植えさしめ造立し給ふ  結構譬うるに物なし  城外の四方に諸侯の第宅(やしき)をかまえ  樂を聚(たのしみをあつめ)觀樂(かんらく)を極め給ふによって  世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記し、関白秀吉の威勢を誇示して大層豪華なものであったことが判ります。

聚楽第址碑

Photo_2

 聚楽第の周辺一帯は秀吉に臣従する諸大名の屋敷町となっていました。その跡地は現在も町名としてその名残をとどめており、大名の名前が付く町名は20町程あるようです。
 以前、聚楽第絡みの記事で、諸大名の屋敷跡に因む町名を10町程あげたことがありました。今回はそれらを除いた3町の仁丹町名表示板の写真をあげておきます。

仁丹町名表示板
 甲斐守町は黒田甲斐守長政、左馬松町は加藤左馬助嘉明、飛騨殿町は蒲生飛騨守氏郷です。

_01_3

_01_6

_01_7

« 暖簾いろいろ その4 | トップページ | 暖簾いろいろ その5 »

仁丹町名表示板」カテゴリの記事

町名・地名の由来」カテゴリの記事

道標・史跡などの石碑」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 暖簾いろいろ その4 | トップページ | 暖簾いろいろ その5 »