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2014年10月

2014年10月31日 (金)

鉾町、大原神社、そして産屋

 このタイトルは別に奇を衒うとか、意表を突くと云った意図はありません。記事の流れから、たまたまそうなったに過ぎないのです。
 ただ、記事としてはいつもより長めとなったことをお断りしておきます。

《善長寺町》

 京都市下京区に善長寺町(綾小路通室町西入ル)という町があります。かつて、この地に善長寺という寺があったのが町名の由来です。しかし、その寺は天正19年(1591)豊臣秀吉の京都改造に伴い、中京区東側町(新京極通蛸薬師下ル)に移転しています。

《善長寺町の綾傘鉾》

 善長寺町は、祇園祭の前祭で巡行する「綾傘鉾」の鉾町です。
 この鉾は、元治元年(1864)の蛤御門の変による大火で焼失したため、永らく巡行への参加が途絶えていました。しかし、昭和48年(1972)に棒振り囃子で宵山行事に参加復活。さらに昭和54年(1979)から綾傘が巡行に参加しています。

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《善長寺町の大原神社》

 この神社は旧村社で、伊弉冉尊を祀る。
 弘仁2年(811)の勧請で、京都府南丹市美山町樫原の大原神社から分霊を招き祀ったということです。天明8年・元治元年の大火で焼失し、現社殿はその後の再建というが、こじんまりした中にも清々しい雰囲気がある。
 江戸時代には本宮よりも、同じ分社ながら、三和町大原の大原神社との繫がりの方が強かったようです。

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《京都府美山町樫原大原谷の大原神社》

 由良川上流大野ダム右岸の若狭街道(府道12号)沿いに樫原と云う集落がある。その山麓に鎮座する大原神社は、京都市善長寺町の大原神社および京都府三和町大原の大原神社の本宮(本社)にあたります。
 孝徳天皇の御代(645〜654)の創祀とされ、伊弉冉尊・伊弉諾尊・天照大神を祀るこの神社の社格は旧郷社です。
 霊験あらたかな神社で大原詣でと称して近畿全域からの参詣があり、三和町の大原神社など各地に分霊されて大原講が存在したそうです。
 近世には園部藩主代々の祈願所となり、丹波六社の一とされた。

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《福知山市三和町大原の大原神社》

 綾部街道(国道173号)沿いにある三和町大原の中心集落「町」、ここにも大原神社が鎮座する。
 祭神は伊弉冉尊・天照大神・月読命で天一社とも称し、社格は旧府社
 社伝によると、仁寿2年(852)に上記樫原の大原神社から分霊を迎え祀る
 近世には、かつて伊勢・志摩で活躍した九鬼水軍の総帥であった綾部藩主九鬼氏をはじめ公卿諸侯の崇敬が厚かったという。拝殿唐破風の彫刻は大変立派なもので京都府の指定文化財となっている。
 また、当社への参詣者が多く集まり栄えて、大原神社に参詣することを「大原志(おばらざし)」と云って季語にもなっているそうです。そして、綾部からこの大原神社社頭を通る街道は、伏見の酒造・宇治の茶摘みなどの出稼者が大勢の組を作って通った。
 このように多くの人が集まり、また通行したことから賭博が盛んな土地だったということです。
 なお、江戸時代には社勢を延ばすため、山城地域の配札拠点としての役割を善長寺町の大原神社が担ったと云う。
 

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《大原の産屋》

 三和町の大原神社社頭前を流れる川合川対岸の畔にあって、古代の天地根元造りを模しており京都府指定有形民俗文化財となっている。
 住居とは別に設けられた出産専用の小屋で集落の共有施設
 産婦は出産の時、12把の藁(閏年は13把)を持ち込み、出入り口に魔除けとして古鎌を吊り、ここに籠って出産していた。この習慣は昭和23年頃まで続いたと云う。
 民俗学では産屋について、家の火が出産のために穢れるのを避けるために隔離する場という考え方と、産神(うぶがみ)を迎え村全体で新しい成員の誕生を祝う出生儀礼の場だという考え方があるようです。

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(* この写真は10月7日の撮影ですが、27日夕方のテレビニュースで葺き替えをして奇麗になったことを画像とともに報道していました)

*註:社格(神社の格式)
 社格制度は、上古の律令制の時代に遡るそうです。近代の社格制度は、明治4年の太政官布告で定められ、大・中・小の官幣社、別格官幣社、大・中・小の国弊社、郷社、村社、無格社に分けた格付けがあったのですが、昭和21年に廃止されました。
 大原神社は本来、本宮(本社)である樫原の方が上位なのですが、近世以降はその分霊を迎え祀った大原の方が本宮を凌ぐ勢いがあったため、社格が上位だったのです。

 

2014年10月24日 (金)

空・光・水・風  その2

すすき
 薄・芒などと書かれ、尾花とも呼ばれます。

 風一筋川一筋の薄かな  正岡子規 
 風は何よりさみしいとおもふ芒の穂  種田山頭火

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 陽の光を受けて光る穂が奇麗です。

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 「すすき」は茅(かや)とも呼ばれ、かつての農村では茅葺き屋根の材料とされましたが、その維持はなかなか難しいようで数は減ってきています。
 しかし、茅葺きの民家は日本の原風景ともいえる趣があり、絵や写真の題材としても好まれる。

 京都府南丹市美山町北の風景。

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 美山町北村は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、多くの茅葺き民家が維持保存されている。
入母屋造の上部にあって、切妻屋根の破風が三角になった部分は、囲炉裏で火を焚くときの煙抜きと風通しのために穴があけてあります。そして、この穴には家紋などの飾り物が付けられている。

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 茅葺きの屋根は30年程度もつようで、集落ごとに輪番で屋根の葺き替えをしてゆく。
 茅刈り・茅おろし・茅運搬など屋根の葺き替えにあたっては、葺き替え職人の他にも多くの労力を必要とする。このため、頼母子講(無尽講)といった相互扶助により、村総出による葺き替えがおこなわれる。
 なお、葺き替え材料確保のために集落毎に萱場(かやば)を持ち、草刈りや火入れをしてすすき原を維持して刈り入れをする。

2014年10月17日 (金)

通り名のいわれ ー醒ヶ井通ー

 現在の醒ケ井通は北端が錦小路通、南端は五条通までの通りです。しかし、昔は北端は一条通、南端は西九条辺りまであったようです。

 通り名の由来について、『京町鏡』には「此通五條下ル二丁目西側人家の間に名水あるゆへに號す  又錦小路より魚棚(現・六条)下ル所迄和泉殿突抜通といふは  北の行あたり藤堂和泉守殿やしき有ゆへ也」とあり、通り名の別称である和泉殿突抜の由来をも記しています。
 醒ヶ井通の北端にある堀川高等学校の校地が、かつての藤堂和泉守屋敷跡にあたるようです。
 なお、堀川通六条上ルに位置する「佐女牛井町」の町名由来も同様に「名水」に因むものです。

「左女牛井之跡」碑

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 通り名・町名の由来となった「名水」とは、現「佐女牛井町」の西側部分にあった「左女牛井(醒ケ井)」のことで、室町時代の茶人村田珠光がこの辺りに住み、足利義政の来臨があった時にこの左女牛井の水で茶を献じたと云う。その後たびたびの兵乱などでこの水を愛でる者は絶えていたが、織田信長の弟織田有楽斎が再興して再び茶の湯に用いたと云う。(『京羽二重織留』、前掲『京町鏡』から)
 余談ながら、四条通と醒ケ井通の交差点北東角にある和菓子屋店頭脇の石碑「醒ケ井」は、本来の左女牛井跡ではなく、菓子屋さんが自家用に掘削した井戸に付けた名前なのです。

佐女牛井町(仁丹町名表示板)
 この表示にある「醒ヶ井(通)」、今は現存していません。

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 先の『京町鏡』の記述で判るように、元々の「佐女牛井町」は醒ヶ井通を挟んだ両側町だったのです。しかし、太平洋戦争中に空襲・火災に備えた建物疎開で、醒ヶ井通の西側にある堀川通が拡幅されました。このため、五条通以南の醒ヶ井通は、その西側部分の民家とともに堀川通に吸収されてしまい無くなったのです。
 そして、もともと醒ヶ井通の東側にあった佐女牛井町の民家は、現在では堀川通の東側歩道沿いの家々となって残っているのです。
 このように、醒ヶ井通の西側民家の間にあった「左女牛井(醒ケ井)」跡は、堀川通の地中に埋没してしまいました。このため、佐女牛井跡碑も建てるべき場所が無くなり、現在は堀川通西側歩道の植え込みにひっそり佇んでいます。

泉水町(仁丹町名表示板)
 先の「佐女牛井町」表示板の場合と同じで、表記の「醒ケ井(通)」は現存しません。

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 「佐女牛井町」の北隣りにある「泉水町」の町名由来は、前掲『京町鏡』に「此町往昔  源義經六條室町の御居館の御庭の泉水ありし舊地也  因て號す  又一説後白川法皇の御所の跡ともいへり」としています。
 と云うことで、源頼義をはじめ為義・義朝・義経など源氏累代の住居であった源氏堀川館の庭園の池の跡であって、名水「左女牛井」跡ではないのです。
 なお、頼義が六條判官と呼ばれたのは屋敷が六条堀川にあったことによります。

2014年10月10日 (金)

空・光・水・風  その1

コスモス

 「秋桜」という異称もありますが、メキシコ原産でキク科の一年草だそうです。
 そして、この花の名は、ギリシャ語の「Kosmos」に由来するそうです。

 コスモスの高さを渡る風の色  稲畑汀子

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 休耕田で栽培されているのをよく見かけます。青空のもと陽光に美しく映えて、サワサワと風に揺れるコスモスの群落もよいものです。

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 突然、奇麗なコスモスの花から別のコスモスへと逸れます。
 今の世界と日本は、「cosmos(調和・秩序)」とは真逆に位置する「chaos(混沌・混乱)」の真っただ中にあるように感じられます。
 中東地域では相も変わらず、「敵の敵は味方」あるいは「共通の敵を持つ国同士が手を結ぶ」という理屈で動いています。
 極東ではお行儀の悪いあの某大国が南シナ海で傍若無人に振るまい、食の安全への脅威・環境汚染をバラまいています。
 一方で、日本は憲法と安保条約の拡大解釈に歯止めが利かず、国民は何かしらオソロシイ方向へと引っ張っていかれそうな危惧を感じます。
 加えて、地球規模の異常気象はハルマゲドンを連想させます。
 これらはまさに、コスモスとはほど遠いカオスの世界と云った様相です。
 「ミネルヴァの梟は黄昏に羽ばたく」(ヘーゲル)という有名な言葉があります。けれども、闇の時代に向かうかに見えるこの期に及んでも、フクロウは眠りこけたままのようです。

2014年10月 3日 (金)

暖簾いろいろ その5

今回も創業は江戸・明治時代と謳う店です

湯葉半
  麸屋町通御池上ル
  享保元年(1716)の創業とか
  生湯葉(汲み上げ湯葉・引き上げ湯葉)とオコゲ

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入山とうふ
  椹木町通油小路東入
  文政年間の創業と云う
  手作りにコダワルとうふ屋さん

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奇竹堂 黒田宗傅
  創業明治29年
  千家十職の一である黒田家分家、茶の湯竹細工の製造販売

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三浦太幸堂
  醒ヶ井通六角下ル
  創業が寛政年間とか
  和太鼓の店

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