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2015年2月

2015年2月27日 (金)

辻子 ー裏辻子(別称「しでのずし)ー

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 新町通と室町通の中程を上立売通から北行する小路で、上立売町・裏風呂町を通貫しています。
 『京町鑑』(宝暦12年刊)では、「又一名  しでのづしとも云」と記している。

 「裏辻子」の北端となる裏風呂町で、上立売通北裏(上立売通の北側裏通り)を東西に延びている小路は風呂辻子です。
 そして、上立売通北裏から北行する小路はしからき辻子と云います。
(これら「風呂辻子」と「しからき辻子」については改めて記事にする予定)

上立売町の仁丹町名表示板

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 「上立売町」とその東隣の「上立売東町」は、ともに上立売通に面した両側町です。この通り名と町名の由来は、以前に「瓢簞辻子」の記事中にも記したように、太閤秀吉の時にこの上立売通、そして中立売通・下立売通の三筋共に呉服屋があって、絹布巻物類を立ち売りした所であることから通の名前になったとする。(上掲『京町鑑』による)

2015年2月20日 (金)

《 四ツ辻の四ツ当り 》

 伏見区大坂町(現・大阪町)に東本願寺伏見別院があります。

 徳川家康の寄進を受けた寺域には蓮池があり、両葉双開の蓮の花が生えていたことから、蓮池御坊・二葉御坊の別称が生じたと云う。
 土地の人々の間では「御堂さん」の通称で通っています。(別院の北側にある町名は「御堂前町」)

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 伏見別院は、慶応4年(1868)正月3日に戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦が勃発した時、幕府軍会津藩の先鋒隊200名はこの伏見御堂を宿所としたが、同年3月には新政府の伏見市中取締役所となった。
 平成2年(1990)に老朽化のため取り壊されて小さな本堂に立て替えられたため、往時を偲ばせるものは山門・鐘楼・大銀杏が残るだけ。なお、創建当初の山門は東面していたが、明治18年(1885)に現在のように南面・縮小したものに立て替えられたという。

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 ところで、伏見別院の門前界隈は、東西南北いずれの方向から来ても、道が突き当たりとなる複雑な形をしています。土地の古老の間では「四ツ辻の四ツ当り(よつつじのよつあたり)」と呼ばれていたと云うことです。

 下図のように、北の御堂前町から南行してくると大阪町で突き当たり(A地点)、東の魚屋町から油掛通を西行してくると大阪町と上油掛町の境界となる地点で突き当たり(B地点)、南の本材木町から上油掛町を北行してくると魚屋町からの西行路(油掛通)に突き当たり(C地点)、西方の濠川に架かる阿波橋から油掛通(古称・阿波橋通)を東行して中油掛町・上油掛町へと進んで来ると大阪町で突き当たり(D地点)となっています。(下図はクリックすると拡大します)

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 これは、軍事上防御的な理由からこうした町割りと道路が造られたもので、城下町の特徴を示しているのだと見る向きもあるようです。 
 しかし、それならば伏見城下町でなぜ大阪町の一帯だけにこのような町割りが見られるのか、その理由の説明がつかないことから、城下町の遺構だと断定するには無理があるようです。
 南西諸島や南九州では、このような丁字路・三叉路など道路の突き当たりには「石敢當(いしがんとう)」を立てて、魔物の侵入を防ぐ魔除けとしているのですが、伏見大阪町の場合はこうしたこととは全く無縁です。(「石敢當」については、以前に当ブログの記事中で取り上げたことがあります)

「中油掛町」の仁丹町名表示板

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 上・中・下の3油掛町と油掛通の名称は、下油掛町にある西岸寺の油掛地蔵に由来しています。
 昔、山崎の油商人がこの寺の門前を通りかかったとき、転んで油を流してしまった。あわてて桶を見ると油はいくらも残っていない。暫くは呆然として立ちすくんでいたが、これも運命なのだろうと思った。
 しかし、このまま帰ってしまうと災厄に遭うかもしれないと考えた油商人は、残っていた油を石仏に灌(そそ)ぐことにより、気がかりな思いを振り払って帰った。その後、この油商人は日々に栄えて大福長者になったと云う。
 それ以来、油を懸けて祈願すると叶う霊験あらたかな地蔵尊(高さ約5尺の石像)として人々に親しまれ、西岸寺の山号(油掛山)となった。

2015年2月13日 (金)

辻子 ー近衞殿辻子ー

 小川通今出川の北一筋目(小川児童公園の南)を東行して、突き当たりの同志社新町校舎の西側から南下、今出川通に至る小路です。
 上小川町・近衛殿北口町・北兼康町・南兼康町を通貫しています。

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 辻子の名称と近衛殿北口町の町名由来は、先回の「中御霊辻子」でも触れましたが、五摂家の一つ近衞家の別邸(近衞殿)があったことに因みます。

【註】:五摂家と近衛家
 五摂家というのは、摂関(摂政・関白)を出す家柄である5家のことで、摂家(摂関家)と呼ばれる。
 藤原道長の子孫が独占していたが、平安時代後期に近衛家と九条家に分かれ、後には近衛家から鷹司家が、九条家からは一条・二条の両家が分立した。

南兼康町の仁丹町名表示板

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2015年2月 6日 (金)

辻子 ー中御霊辻子ー

 この辻子には、「御料人辻子」「御霊辻子」の別称があります

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 この辻子は、中御霊図子町を通貫しています。
 辻子シリーズ先回の記事で取り上げた「畠山辻子」の北端を西行して、新町通の同志社大学新町学舎の東南端に至る小路です。

 この辻子の別称については、元禄二年(1689)刊『京羽二重織留』に「御料人辻子 上立賣の南小川のひがし  櫻の御所の西門前なり  櫻の御所は中世近衛殿の住せし所なり  近衛植家公の息女ゆへありて嫁したまはず  豊臣秀吉公此邊の地子銭を此息女の厨料によせたまふ  其後京師家の地子をゆるさるゝ  此故に五十石の家領を以て地子銭に代  今に至りてしかり  此所御料人の辻子と云べきをあやまりて御霊の辻子と云」と記しており、「御霊辻子(ごりょうのづし)」は「御料人辻子(ごりょうにんのづし)」の誤りだとしています。

注記】:上記の引用にある、近衛植家公息女が豊臣秀吉から廚料として賜った地子銭とは、次のようなものです。
 「地子」とは、田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などに課したした地代のことです。
 そして、元はその土地の産物を地子として現物納入していたのですが、中世後期ごろから貨幣経済が発達すると、貨幣による納入が増加して行きます。
 そして近世になると、都市部ではすっかり貨幣経済が定着したため、地子は物納から銭貨で納入されることが一般的となり、これを「地子銭」と呼びました。


附記(2015.5.4)

 上記の記事を書いて後、『山州名跡志』に以下のような記述を見つけました。
 「御領辻子 上立賣南小河ノ東ニ在 此所北方ニ近衞殿ノ別業有。古絲櫻アリテ貴賤賞ス。之ヲ今御霊辻子ト書ハ非也。一説御料人辻子也ト。是モ亦非也。此殿古ハ大架ニシテ。今四邊ノ地ハ其封境ニテ而家人住ス。故ニ御領ト稱スル也」

附記 (2016.1.16)

 『京羽二重』にも記述がありました。
 「御霊辻子 室町通今出川より一町北の通西へ入所  同すじのしん町どをりよりにしへにし御霊の辻子と云」


附記(2018.5.13)
 『京都坊目誌』の「近衛殿北口町」に、「今俗に此所を目くらの辻子と呼ぶ」という記述を見つけました

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