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2015年2月 6日 (金)

辻子 ー中御霊辻子ー

 この辻子には、「御料人辻子」「御霊辻子」の別称があります

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 この辻子は、中御霊図子町を通貫しています。
 辻子シリーズ先回の記事で取り上げた「畠山辻子」の北端を西行して、新町通の同志社大学新町学舎の東南端に至る小路です。

 この辻子の別称については、元禄二年(1689)刊『京羽二重織留』に「御料人辻子 上立賣の南小川のひがし  櫻の御所の西門前なり  櫻の御所は中世近衛殿の住せし所なり  近衛植家公の息女ゆへありて嫁したまはず  豊臣秀吉公此邊の地子銭を此息女の厨料によせたまふ  其後京師家の地子をゆるさるゝ  此故に五十石の家領を以て地子銭に代  今に至りてしかり  此所御料人の辻子と云べきをあやまりて御霊の辻子と云」と記しており、「御霊辻子(ごりょうのづし)」は「御料人辻子(ごりょうにんのづし)」の誤りだとしています。

注記】:上記の引用にある、近衛植家公息女が豊臣秀吉から廚料として賜った地子銭とは、次のようなものです。
 「地子」とは、田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などに課したした地代のことです。
 そして、元はその土地の産物を地子として現物納入していたのですが、中世後期ごろから貨幣経済が発達すると、貨幣による納入が増加して行きます。
 そして近世になると、都市部ではすっかり貨幣経済が定着したため、地子は物納から銭貨で納入されることが一般的となり、これを「地子銭」と呼びました。


附記(2015.5.4)

 上記の記事を書いて後、『山州名跡志』に以下のような記述を見つけました。
 「御領辻子 上立賣南小河ノ東ニ在 此所北方ニ近衞殿ノ別業有。古絲櫻アリテ貴賤賞ス。之ヲ今御霊辻子ト書ハ非也。一説御料人辻子也ト。是モ亦非也。此殿古ハ大架ニシテ。今四邊ノ地ハ其封境ニテ而家人住ス。故ニ御領ト稱スル也」

附記 (2016.1.16)

 『京羽二重』にも記述がありました。
 「御霊辻子 室町通今出川より一町北の通西へ入所  同すじのしん町どをりよりにしへにし御霊の辻子と云」


附記(2018.5.13)
 『京都坊目誌』の「近衛殿北口町」に、「今俗に此所を目くらの辻子と呼ぶ」という記述を見つけました

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