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2015年2月20日 (金)

《 四ツ辻の四ツ当り 》

 伏見区大坂町(現・大阪町)に東本願寺伏見別院があります。

 徳川家康の寄進を受けた寺域には蓮池があり、両葉双開の蓮の花が生えていたことから、蓮池御坊・二葉御坊の別称が生じたと云う。
 土地の人々の間では「御堂さん」の通称で通っています。(別院の北側にある町名は「御堂前町」)

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 伏見別院は、慶応4年(1868)正月3日に戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦が勃発した時、幕府軍会津藩の先鋒隊200名はこの伏見御堂を宿所としたが、同年3月には新政府の伏見市中取締役所となった。
 平成2年(1990)に老朽化のため取り壊されて小さな本堂に立て替えられたため、往時を偲ばせるものは山門・鐘楼・大銀杏が残るだけ。なお、創建当初の山門は東面していたが、明治18年(1885)に現在のように南面・縮小したものに立て替えられたという。

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 ところで、伏見別院の門前界隈は、東西南北いずれの方向から来ても、道が突き当たりとなる複雑な形をしています。土地の古老の間では「四ツ辻の四ツ当り(よつつじのよつあたり)」と呼ばれていたと云うことです。

 下図のように、北の御堂前町から南行してくると大阪町で突き当たり(A地点)、東の魚屋町から油掛通を西行してくると大阪町と上油掛町の境界となる地点で突き当たり(B地点)、南の本材木町から上油掛町を北行してくると魚屋町からの西行路(油掛通)に突き当たり(C地点)、西方の濠川に架かる阿波橋から油掛通(古称・阿波橋通)を東行して中油掛町・上油掛町へと進んで来ると大阪町で突き当たり(D地点)となっています。(下図はクリックすると拡大します)

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 これは、軍事上防御的な理由からこうした町割りと道路が造られたもので、城下町の特徴を示しているのだと見る向きもあるようです。 
 しかし、それならば伏見城下町でなぜ大阪町の一帯だけにこのような町割りが見られるのか、その理由の説明がつかないことから、城下町の遺構だと断定するには無理があるようです。
 南西諸島や南九州では、このような丁字路・三叉路など道路の突き当たりには「石敢當(いしがんとう)」を立てて、魔物の侵入を防ぐ魔除けとしているのですが、伏見大阪町の場合はこうしたこととは全く無縁です。(「石敢當」については、以前に当ブログの記事中で取り上げたことがあります)

「中油掛町」の仁丹町名表示板

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 上・中・下の3油掛町と油掛通の名称は、下油掛町にある西岸寺の油掛地蔵に由来しています。
 昔、山崎の油商人がこの寺の門前を通りかかったとき、転んで油を流してしまった。あわてて桶を見ると油はいくらも残っていない。暫くは呆然として立ちすくんでいたが、これも運命なのだろうと思った。
 しかし、このまま帰ってしまうと災厄に遭うかもしれないと考えた油商人は、残っていた油を石仏に灌(そそ)ぐことにより、気がかりな思いを振り払って帰った。その後、この油商人は日々に栄えて大福長者になったと云う。
 それ以来、油を懸けて祈願すると叶う霊験あらたかな地蔵尊(高さ約5尺の石像)として人々に親しまれ、西岸寺の山号(油掛山)となった。

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