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2015年3月

2015年3月27日 (金)

辻子 ー元誓願寺辻子と狩野辻子ー

 この二つの辻子は、いずれも元誓願寺通の新町と小川間にあります。そして、徳大寺殿町・元図子町、針屋町と靭屋町の境界を通貫している小路です。

元誓願寺辻子

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狩野辻子

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 ところがどう云うわけか、同一文献なのに記述個所により、これらの辻子は同一の辻子とも、別の辻子だとも記しているのです。これには戸惑ってしまいます。以下をご覧ください。

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 『京町鑑』の「元誓願寺通」の項には、「小川東入  元誓願寺辻子 又一名 狩野辻子とも云 」とし、「又 狩野辻子といふは  畫師狩野正信  男[息子の意]元信此所に居住の舊地なり」と記しています。
 つまり、「狩野辻子」は「元誓願寺辻子」の別名で、これらは一つの辻子だとしているのです。

 ところが、同じく『京町鑑』の「新町通」の項では、「此徳大寺町西側に西入所を 狩野辻子 此町に繪師狩野氏の屋しきあり」として、その少し後に「此狩野辻子の西町  元誓願寺辻子」としています。
 つまり、これらは東西に隣り合った全く別の辻子だと読めるのです。

 それはそうと、『京羽二重織留』では、「狩野家宅地」を「新町通徳大寺の町の西にあり  畫師狩野越前守元信が宅此所にあり  此故に町の名を今  狩野の辻子と云」としているのです。
 この記述は、狩野辻子については記すものの、元誓願寺辻子には触れていません。したがって、同一辻子の別称なのか、それとも別個の辻子なのか、判然としません

 なので、私としては敢えて、狩野辻子は元誓願寺通新町の徳大寺殿町から西方の狩野邸辺りまで、その西側部分は元誓願寺辻子であって、別個の辻子だと独り決めすることにしました。
 
「いやいやそうではないよ!」と仰る向きもおありでしょう。しかしまぁ余り硬いことは言わずに、独断を許してください。
 そして、二つの辻子の境界は元図子町の中程(まだ記事にしていないのですが「常磐井辻子」の北端と元誓願所通が交わる地点辺り)としておきますが、さてどんなものでしょう。

ここが両辻子の境界と(私が)目する地点です

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追記:『京都坊目誌』の記述
「元辻子町 始め狩野辻子と云ふ  寶曆町鑑に元誓願寺ノ辻子とあり  維新の際今の名とす  弘治永祿の頃狩野法眼元信此地に住す」

 ついでながら、町名等の由来を少しばかり。
 「元誓願寺通」は『京町鏡』に「此通小川に昔誓願寺ありしゆへ通の名に呼來れり」とし、「誓願寺は元大和国奈良の京にありしを此京へ都を移し給ひし時  誓願寺もともにうつされしと也  然るに太閤秀吉公の時  今の京極六角の東へ引しと也」と記しています。
 「徳大寺殿町」は公家の徳大寺家邸宅があったことによる。
 「元図子町」は「元誓願寺辻子町」の略称。
 「針屋町」は豪商灰屋紹益の別宅があったことから、灰屋が針屋に転訛したともいわれる。
 「靭屋町(うつぼやちょう)」は、靭(矢を携帯するための矢筒)を作る靭師や職人が住んだことによるそうです。

2015年3月20日 (金)

将軍塚

 山科まで出かけた帰り道、生憎の曇天で眺望は余り期待できませんでしたが、将軍塚に立ち寄りました。
 そして、どうでもいいことですが、その帰途に国道1号線の混雑を避けるため渋谷街道へ逃げたところ、危うく鼠捕りに引っかかりそうになりました。あぶないあぶない。

 将軍塚は円山公園の東方、青蓮院飛び地境内の大日堂境内(華頂山頂)にあります。大きさは直径約20m、高さは約2m程の円墳です。

将軍塚

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 昨2014年12月、境内に青蓮院の大護摩堂「将軍塚青龍殿」が建立され、赤不動(高野山明王院)、黄不動(三井寺)とともに日本三大不動明王の一とされる青不動が安置されています。

大日堂青龍殿

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そして、その外陣に「清水の舞台」を凌ぐ大舞台が造られ、京都市街を見晴るかすことができます。

京都市内を遠望1
 中央の丘陵の左端に見える堂宇群は黒谷の金戒光明寺と塔頭、その左手向こうのやや小さい丘陵は神楽岡(吉田山)のようです。

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京都市内を遠望2
 手前に平安神宮の赤い大鳥居と社殿が見えます。

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 桓武天皇は、延暦3年(784)に都を平城京から長岡京に移したものの、不祥事が頻発したことから、僅か10年程で平安京へ都を遷されます。
 和気清麻呂が桓武天皇をお連れして華頂山山頂から眺めた京都盆地を、都として定めるのに相応しい地であると勧めたことで、天皇は延暦13年(794)平安京建都に着手しました。(「鳴くよ鶯平安京」と覚えたものです)
 この時、天皇は王城鎮護のための塚を築き、守護神として土偶(将軍像)を埋めるよう命じたことが、将軍塚の名称の由来だと云われます。

『山城名跡巡行志』(宝暦4年刊)
 「将軍塚 同山頭ニ在リ  塚上ニ老松有リ  桓武帝遷都ノ時  八尺(約2.5m)ノ土人形ヲ造リ  鐵ノ鎧冑ヲ着ケ弓矢ヲ持タシム  西向キニ埋テ  王城ノ守護神ト為ス  天下ニ事有ル時ハ此塚鳴動ス」

『京童』(明暦4年刊)
 「しやうぐんづかといふは。くわんむてんわうの御とき。此京のしゅごじんとして。八尺の土偶人をつくり。くろがねのゆみ矢をもたせ。面躰にしむかはせたゝせて。この山上にうづませたまへるなり。天下わざはひあるときはしんどうする也。」

 上記の二書は何れも、天下に異変のある時には、鳴動してその前兆を示すと伝える。
 また、次の書物では、都を他へ移すような事があれば、その者を罰せよとの命令があったとしている。

『京雀』(寛文5年刊)
 「・・・延暦十三年に長岡の京よりこの平安城にうつり給ふ  公卿せんぎありて  王城けんご長久のためとて  長八尺の土人形をつくり  くろがねの甲冑を着せ弓矢をもたせ  帝みづから人形にむかひ祝し給はく  かならずこの京の守護人となり  後の世にもしこの都を他所にうつす事あらば  その人を罰せよと宣命ありて  ひがし山のみねに一丈あまりのあなほらせ  西むきにたてゝ埋まれたり  今の将軍塚これなり」

2015年3月13日 (金)

辻子 ー風呂辻子と柳辻子ー

風呂辻子

 上立売通北裏(上立売通の北側裏通り)の新町通〜室町通間を東西に延びる小路。
 室町頭町・裏風呂町・安楽小路町、室町頭町と裏風呂町の境界、裏風呂町と安楽小路町の境界を通貫しています。(室町通以東は、下記「柳之辻子」です)
 『京町鑑』には、風呂辻子を「西半町東半町にわかる」と記しており、昔は東西の二町に分かれていたようです。

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裏風呂町の仁丹町名表示板

 町名「裏風呂町」は、裏辻子と風呂辻子を合わせて町名としたようです。

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光照院

 冒頭の辻子写真の突き当たりに少し見えているのが光照院。
 開基は本覚尼(後伏見天皇の皇女が出家得度)。光照院は風呂辻子が通貫する安楽小路町に所在していますが、この町名はかつて此所にあった安楽光院(藤原基頼邸内に建てた寺仏堂)に由来しています。

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柳之辻子

 烏丸通上立売から北行して、一筋目(上立売通北裏)を西方に延びる小路で、室町通までの間。
 柳図子町・上立売東町・室町頭町を通貫しています。
 『京雀』には、「武者小路と一條通とのあひだ からす丸西へ入町只一町あり 柳の辻子といふ 西は行當也」とある。
 なお、上記の「風呂辻子」は、この柳辻子の西側(室町通以西)にあたる。

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 「室町頭町」の町名は、室町通の頭(北端)を意味しています。『京町鑑』では、「室町頭  北半町南半町二町に分る  此北半町東入町は  柳辻子也  又南半町西入町を風呂辻子…」としていて、北と南に分かれていたのが、明治維新に合併して室町頭町となっています。

2015年3月 6日 (金)

空・光・水・風  その6

阿羅漢石像(石峰寺)

 木洩れ陽を受けて、ほのぼのとしたお顔の羅漢像です。
 これらの五百羅漢石像は、伊藤若冲が下絵を描き、石工が彫り上げたものと云われる。
 若冲は江戸時代中期の畫師で、京都錦小路の青物問屋の長男として生まれるが、弟に店を譲り画業に専念。没後は石峰寺(伏見)に葬られた。

【注】この画像3点は、10年前(2005.1.3)に撮影したものです。
 ところが、マナーの悪い人達が増えたようで、現在はスケッチと写真撮影は禁止されています。
 今回、この写真をブログにアップするに際しては、石峰寺さんからご承諾をいただきました。

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白梅・紅梅

 東風吹かば  にほいおこせよ  梅の花
    あるじなしとて  春な忘れそ  菅原道真

 梅一輪   一輪ほどの   暖かさ  服部嵐雪
 梅が香に  のっと日の出る  山路哉  松尾芭蕉

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馬酔木(アセビ)

 来しかたや  馬酔木咲く野の  日のひかり  水原秋桜子

 万葉集の中にも大伴家持はじめ、馬酔木を詠んだものが多くある。
 短歌雑誌や俳句誌にも「馬酔木」というのがあった。

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