2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

リンク集

無料ブログはココログ

« 辻子 ー風呂辻子と柳辻子ー | トップページ | 辻子 ー元誓願寺辻子と狩野辻子ー »

2015年3月20日 (金)

将軍塚

 山科まで出かけた帰り道、生憎の曇天で眺望は余り期待できませんでしたが、将軍塚に立ち寄りました。
 そして、どうでもいいことですが、その帰途に国道1号線の混雑を避けるため渋谷街道へ逃げたところ、危うく鼠捕りに引っかかりそうになりました。あぶないあぶない。

 将軍塚は円山公園の東方、青蓮院飛び地境内の大日堂境内(華頂山頂)にあります。大きさは直径約20m、高さは約2m程の円墳です。

将軍塚

_01

 昨2014年12月、境内に青蓮院の大護摩堂「将軍塚青龍殿」が建立され、赤不動(高野山明王院)、黄不動(三井寺)とともに日本三大不動明王の一とされる青不動が安置されています。

大日堂青龍殿

_01_2

そして、その外陣に「清水の舞台」を凌ぐ大舞台が造られ、京都市街を見晴るかすことができます。

京都市内を遠望1
 中央の丘陵の左端に見える堂宇群は黒谷の金戒光明寺と塔頭、その左手向こうのやや小さい丘陵は神楽岡(吉田山)のようです。

_01_3

京都市内を遠望2
 手前に平安神宮の赤い大鳥居と社殿が見えます。

_01_4

 桓武天皇は、延暦3年(784)に都を平城京から長岡京に移したものの、不祥事が頻発したことから、僅か10年程で平安京へ都を遷されます。
 和気清麻呂が桓武天皇をお連れして華頂山山頂から眺めた京都盆地を、都として定めるのに相応しい地であると勧めたことで、天皇は延暦13年(794)平安京建都に着手しました。(「鳴くよ鶯平安京」と覚えたものです)
 この時、天皇は王城鎮護のための塚を築き、守護神として土偶(将軍像)を埋めるよう命じたことが、将軍塚の名称の由来だと云われます。

『山城名跡巡行志』(宝暦4年刊)
 「将軍塚 同山頭ニ在リ  塚上ニ老松有リ  桓武帝遷都ノ時  八尺(約2.5m)ノ土人形ヲ造リ  鐵ノ鎧冑ヲ着ケ弓矢ヲ持タシム  西向キニ埋テ  王城ノ守護神ト為ス  天下ニ事有ル時ハ此塚鳴動ス」

『京童』(明暦4年刊)
 「しやうぐんづかといふは。くわんむてんわうの御とき。此京のしゅごじんとして。八尺の土偶人をつくり。くろがねのゆみ矢をもたせ。面躰にしむかはせたゝせて。この山上にうづませたまへるなり。天下わざはひあるときはしんどうする也。」

 上記の二書は何れも、天下に異変のある時には、鳴動してその前兆を示すと伝える。
 また、次の書物では、都を他へ移すような事があれば、その者を罰せよとの命令があったとしている。

『京雀』(寛文5年刊)
 「・・・延暦十三年に長岡の京よりこの平安城にうつり給ふ  公卿せんぎありて  王城けんご長久のためとて  長八尺の土人形をつくり  くろがねの甲冑を着せ弓矢をもたせ  帝みづから人形にむかひ祝し給はく  かならずこの京の守護人となり  後の世にもしこの都を他所にうつす事あらば  その人を罰せよと宣命ありて  ひがし山のみねに一丈あまりのあなほらせ  西むきにたてゝ埋まれたり  今の将軍塚これなり」

« 辻子 ー風呂辻子と柳辻子ー | トップページ | 辻子 ー元誓願寺辻子と狩野辻子ー »

町名・地名の由来」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 辻子 ー風呂辻子と柳辻子ー | トップページ | 辻子 ー元誓願寺辻子と狩野辻子ー »