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2015年4月

2015年4月24日 (金)

辻子 −本満寺辻子-

本満寺辻子

 本満寺辻子は、新町通今出川から一筋北の西行する小路。
 元新在家町・元本満寺町・北兼康町を通貫しています。

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 「本満寺辻子」と「元本満寺町」の名称は、かつてこの地に所在した日蓮宗の本満寺に由来します。
 本満寺は應永17年(1410)、関白左大臣の近衛道嗣邸に長子である日秀が建立したのに始まるということです。
 その辺りを『山城名跡巡行志』には、「開基日秀 應永年中 上立賣新町ニ建立ス 此地ハ近衛左大臣道嗣公ノ別業也 日秀ハ道嗣公ノ長子也」と記しています。「別業」は別荘のことです。
  なお、天文8年(1539)に、現在地の寺町通今出川上ル鶴山町に移建しています。

元本満寺町の仁丹町名表示板

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「元新在家町」は、中世に絹織物を生産していた練貫座の所在した白雲(村)の地に当り、新町通今出川の北に新しく開かれた集落を新在家と称していたのです。
 ところが、その地の水が織物生産に適さなくなったため、移転した御所近辺の地が「新在家」となったことから、旧地の呼称は「元新在家」に変わったと云うことです。
 なお、御所近辺に引き移った「新在家」は、明治になって京都御苑に取り込まれたために消滅してしまいました。寛文5年(1665)刊『京雀』の記述によれば、鷹司通(現・下長者町通)の東洞院辺りにあったようで、慶応4年(1868)刊『改正京都御絵図細見大成』でも、そこに「新在家」の表記があります。

元新在家町の仁丹町名表示板

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2015年4月17日 (金)

空・光・水・風  その8

新緑のモミジ

 葉の形から、「蛙手(かえるて)」が「かへで」へ、そして「かえで」に転訛した云われます。

 ふた葉三葉ちりて日くるる紅葉かな 与謝蕪村

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山吹のつぼみ

 七重八重  花は咲けども  山吹の  実の一つだに  なきぞ悲しき

 これは、後拾遺和歌集にある兼明親王の歌ですが、太田道灌にまつわる逸話の方で有名ですね。

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木蓮(もくれん)

 ランの花にも似ていることから昔は「木蘭(もくらん)」と呼ばれたこともあるようです。

 木蓮の風のなげきはただ高く 中村草田男

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著莪(シャガ)

 樹木の日陰や湿地に生えますが、アヤメ科の植物に違いなかろうと思える花です。

 著莪叢のとどく木漏れ日濡れており 稲畑汀子

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さくら(これも蘖?) 二題

 願はくは  花の下にて  春死なん  そのきさらぎの  望月のころ  西行

 あまりにも有名な歌です。歌の通り望月(満月)の頃の陰暦2月16日(釈迦寂滅の日)に没したと云う。

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2015年4月10日 (金)

辻子 ー入江辻子・信楽辻子ー

入江辻子

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 新町通上立売から南行して、先頃記事にした中御霊辻子に至まるまでの間。
 上立売町・西大路町の境界を経て中御霊図子町を通貫している。

 『京町鑑』によれば、新町通上立売下ル東側に「三時知恩寺」という尼寺があり、「入江殿」と云い「入江御所」とも称したことが辻子の名の由来とする。

《 三時知恩寺 》

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 門跡尼院の一。
 応永年間に後光厳天皇の皇女見子内親王(入江内親王)の開創で、知恩寺を寺号とした。
のち、宮中での六時の勤行(1日六回の勤行)は日中は行い難いので、昼間三時の勤行は知恩寺で行えとの命令があったことから、以後は三時知恩寺と称することになったと云う。

しからき(信楽)辻子

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 室町通と新町通の間を寺之内通から南下する小路で、上立売通北裏(上立売通の北側の通り)まで。納屋町と木下突抜町の境界、木下突抜町、裏風呂町を通貫している。

 この「しからき辻子」の南、つまり上立売北裏以南は、先頃に記事にした「裏辻子」となる。
 なお、定かではないが寛文のあと延宝期の町鑑では「しばの辻子」としているとか。

 

2015年4月 3日 (金)

空・光・水・風  その7

雲 1
 鉤状に曲がった巻雲

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雲 2
 これ、羊雲(高層雲)かな?

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 煌めく超ミニ瀑布

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サボテン
 スポットライトを浴びる覇王樹

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ユキヤナギ
 清楚で可憐

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