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2015年7月

2015年7月31日 (金)

辻子 ー橘之辻子ー

 烏丸通武者小路を南へ一筋目、京都御所乾御門の門前を烏丸通から西行する小路。 
 観三橘町と福長町を通貫して室町通に至る。

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 「観三橘町」は、明治2年(1869)に観音町(烏丸通武者小路下ル)・三条殿町(烏丸通今出川下ル)・橘図子町(烏丸通一条上ル)の三町が合併したとき、三町それぞれの一字ずつを取って町名とした。
 「観音町」は、町東側の京都御苑にあった金山天王寺の観音堂が町名の由来と云う。
 「三条殿町」は、公家の三條家邸宅跡であることが由来。
 「福長町」の町名は、町内に所在する福長神社の名前をとって名付けられている。

福長神社

Photo

 神社名は、祭神「福井神」「綱長井神」の神名によるという。この二神はいずれも井戸の守護神だそうです。
 なお、「稲荷神」をも合祀していることから「福長稲荷」の俗称もあるという。

 

2015年7月24日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 9

 今回も下京区で見かけたものですが、説明なしでお目にかけます。

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2015年7月17日 (金)

辻子 ー出雲寺辻子ー

出雲寺辻子

 出雲寺辻子は、上御霊前通の烏丸〜室町で、内構町を通貫している。

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 『京町鑑』では、「内構町」の次に「此町南側  和泉神町  又本名出雲寺辻子  古  出雲寺とて大伽藍のありし舊地也  故にしかいふ  中頃出雲寺町といひしがいつの頃よりか文字も書誤りし也」としており、辻子名は出雲寺と云う大寺があったことに因む。

 むかし、出雲路の地に上御霊神社が、その南に下御霊神社が創建され、それぞれの境内に御霊会の修法堂として上出雲寺と下出雲寺が造営されました。

上御霊神社

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 現在では上御霊神社の社域は狭くなって木々も少ないのですが、昔は広大な境内地に鬱蒼と樹木が茂り、「御霊の森」と呼ばれたということです。
 したがって、烏丸通を挟んだ西側の一帯も神社社域でした。そして、そこにあった上出雲寺が「出雲寺辻子」の名前の由来となったのでしょう。 しかし、上出雲寺は、平安末期の頃には廃頽したようです。

下御霊神社

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 下出雲寺は、中世に下御霊社が新町下立売に移転する時に共に移ったものの、応仁の乱の兵火にかかり退転し、下出雲寺創建当時の旧地には室町時代になって相国寺が建立されたため全く消滅したようです。(下御霊神社は寺町通竹屋町の現在地に遷座しました)

 「内構町」は、室町時代にはこの地の南に管領細川勝元邸があり、その邸宅の構えの内にあたることが町名の由来とも云う。
 「上御霊前通」という通り名は、もちろん上御霊神社に由来しています。

上御霊前町の仁丹町名表示板

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 ところが 、平凡社刊『京都市の地名』の「上御霊前町」項には「相国寺境内へ通じる小路を《出雲の辻子》とよんでいたが、明治維新後廃道となり、明治44年(1911)に当町より南へ新道を造成した。」とあります。しかし、特に典拠は明記されていません。
 上出雲寺の南にあったとされる下出雲寺は、後の室町時代に創建される相国寺の近くに位置したようです。したがって、多分「出雲寺辻子」と「出雲の辻子」は別物と思われるのですが、はっきりせず何とも悩ましいことです。

2015年7月10日 (金)

辻子 ー水落辻子(箸箱辻子・地藏辻子とも)ー

水落辻子

 上立売通堀川の二筋東(油小路通)を南行する小路で南端は「本阿彌辻子(実相院辻子とも)」に至る。
 水落町・御三軒町の境界、水落町、実相院町を通貫している。

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 『京町鑑』には、「小川通」の「上立賣下ル  此町中程西入所を  上小川町 ㋵水落辻子叉◯箸箱の辻子叉◯地藏の辻子とも云」としています。
 また、辻子名と「水落町」の名称由来について、「㋟水落町  此町  古の水落寺の舊地也  俗に地藏辻子とも  又  水落辻子とも云」と記しています。
 『山城名跡巡行志』でも「云上立賣小川西  古有水落寺依名」と記し、むかし水落寺が所在したことが地名の由来だとしています。

水落町の仁丹町名表示板

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 ところがしかし、『山州名跡志』の記述は少し異なります。「水落 地名 上立賣通小川ノ西ヲ云フ 名義土人ノ曰ク。 古ハ此邊小川ノ底窪ミテ。流水落スガ如シ。故ニ之ヲ號ス。(略) 南ノ方東ノ頬(つら)ニ。古西先寺アリ。本尊地蔵尊也此堂今百萬返西門ノ外ニ移ス。舊地ヲ地藏ノ辻子ト称ス。」との記述です。つまり、川が窪んで落差のあったことが地名由来とし、その西先にあった寺の地蔵尊に因んで辻子の名称となったとしているのです。

「御三軒町」の掲示板

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 「御三軒町」の名称由来については、『山州名跡志』によると当時は「御三間町」と書いたようで、「古老曰。今此三字ハ誤リニテ實ハ御三家町ナリ。」と記し、三管領の斯波・細川・畠山の三家が屋敷を構えていたからだとしています。
 ですから、元は「御三家町」であり、「御三軒町」「御三間町」ともに誤りなのですね。

2015年7月 3日 (金)

くちなはの辻子 《補訂》

 以前(2012.6.15)に、『辻子 ーくちなはの辻子と延年寺辻子』を書きました。
 当時は、「くちなはの辻子」の所在地(位置)を、「現在の東大路通の八坂道と清水道の間で、玉水町と辰巳町を通っている」としていました。けれども、その場所(位置)がどうも自分自身でいま一つ納得できませんでした。
 機会があれば手直しをしたいと思っていたのですが、最近になって、その点に関わる記述を、江戸時代に著された地誌から幾つかを拾ってみました。

 一つ目、元禄2年(1689)刊『京羽二重織留  巻三』、「謬傅」中「苦集滅道(くすめじ)」の記述です。
 「東山觀勝寺の前に有  祇園林の南より建仁寺の竹林の東を經て六波羅の東に出る道なり  いにしへ教待和尚三井寺より木履をはきて山崎の別業に通ひ給ふとき  此所にてぼくりの齒をと苦集滅道のひヾきあり  此故に此細道をくすめじと云  今あやまりてくちなはの辻子と云」
 【註】觀勝寺というのは、安井金毘羅宮の前身にあたる安井光明院観勝寺です。

 二つ目、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』、「松原通」中「四丁目」の記述から抜粋します。
 「其西の方  建仁寺東境藪の際を北ヘ行道あり  俗にくちなはの辻子と云  北ヘ行ば安井御門跡の前へ出る」

 三つ目、前掲書「建仁寺町通」中「毘沙門町」の記述です。
 「此町  南の辻少し西入下ル筋は建仁寺東裏の藪也  此所俗にくちなはの辻子といふ  一説に苦集滅道の転語といへども誤り也  苦集滅道は澁谷越の中に有  此筋南へ行ば松原通也」

【註1】觀勝寺: 東岩倉山(現・左京区粟田口大日山町)にあったが、応仁の乱の兵火で焼けてしまいます。しかし、江戸時代の初期に安井門跡性演が現在の東山区毘沙門町付近に再興しました。
 そして、觀勝寺とともに罹災した真性院・光明院などを統合して、東山安井の地に再興されたのが、いわゆる安井門跡(正しくは蓮華光院)と称された寺院だったのです。
 現在の東大路通の西側、安井北門通と安井金毘羅宮参道の間が安井門跡の跡にあたるようです。

 安井北門通

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 安井神社参道

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【註2】苦集滅道(くすめじ):「澁谷越(澁谷は瀋谷・汁谷とも書いた)」の古名で、久久目路とも作った。現在の渋谷街道(醍醐街道)にあたるもので、上記三つ目の引用文にあるように、「くちなはの辻子」と「苦集滅道」は、何らのつながりも無いようです。
 因に、「苦集滅道」は仏教で「四諦」を表す用語です。「四諦」を『岩波 仏教辞典』で調べたのですが、煩瑣にわたるため内容の説明は省きます。

 
 上記の文献記述を考え合わせた結果、「くちなはの辻子」の位置を、次のように改めることにしました。
 「北端は、祇園林、つまり「藪の下」の別称をもつ八軒町辺り(現・祇園石段下の南側)から、觀勝寺=安井門跡(毘沙門町から下弁天町にかけて存在した)の門前を経て、南端は松原通に至る小路でした。」
 現在の町名で云えば、祇園町南側・月見町・毘沙門町・下弁天町・玉水町・辰巳町を通貫していたようです。

 安井門跡の前を通る道であることから「安井道」の呼称があったのですが、狭小な道であったことから、「くちなわ(蛇)の辻子」と通称されました。
 因に、古絵図を見ると、安井門跡の門は東向き、くちなはの辻子(安井道)に面しています。そして、西側(裏)は建仁寺、というよりも安井門跡が建仁寺境内に食い込んだ形で描かれています。

安井神社本殿

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 現在の安井神社(通称・安井金毘羅宮)は、元は安井門跡内の觀勝寺境内西南の一角に位置したが、明治始めの神仏分離で独立したものです。(縁切り・縁結びの碑には若い女性が願をかけに大勢訪れています)
 なお、安井門跡本体はその少し後、衰退して寺号や寺地を譲って廃寺となりました。
 また、旧安井道は、安永年間に三間幅に拡幅、明治45年にはさらに拡幅延長されて東大路通となりました。

さらに追補:(2016.5.22)
 『京都坊目誌』の「祇園町南側」中に、くちなはの辻子の位置と変遷に関する記述を見つけたので、引いておきます。
 「八軒と稱する所 石段下南入所 は延寶の頃南に續き狭小なる道路ありて。僅かに安井に通す。之を蛇(くちなは)ノ辻子と字す。其後安永の頃 三間道路となりしが。大正元年九間に擴築し。十二月二十五日電車を通す。」としています。
 さらに、「玉水町」「辰巳町」の項には「始め小徑ありて蛇の辻子と呼」とあり、「毘沙門町」項には「元禄以前今の月見町を経て祇園町に通ずる細徑あり。俗に蛇の辻子と字す」と記しています。これらのことから《くちなはの辻子》は、北は祇園町南側(当時の八軒町俗にいう藪の下)から南は松原通の間を通っていたことが判明しました。
 そして、狭い「くちなはの辻子」が徐々に拡張されてゆき、大正元年には電車を通す程に拡げられて今の東大路通となったことが判ります。
 

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