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2015年7月 3日 (金)

くちなはの辻子 《補訂》

 以前(2012.6.15)に、『辻子 ーくちなはの辻子と延年寺辻子』を書きました。
 当時は、「くちなはの辻子」の所在地(位置)を、「現在の東大路通の八坂道と清水道の間で、玉水町と辰巳町を通っている」としていました。けれども、その場所(位置)がどうも自分自身でいま一つ納得できませんでした。
 機会があれば手直しをしたいと思っていたのですが、最近になって、その点に関わる記述を、江戸時代に著された地誌から幾つかを拾ってみました。

 一つ目、元禄2年(1689)刊『京羽二重織留  巻三』、「謬傅」中「苦集滅道(くすめじ)」の記述です。
 「東山觀勝寺の前に有  祇園林の南より建仁寺の竹林の東を經て六波羅の東に出る道なり  いにしへ教待和尚三井寺より木履をはきて山崎の別業に通ひ給ふとき  此所にてぼくりの齒をと苦集滅道のひヾきあり  此故に此細道をくすめじと云  今あやまりてくちなはの辻子と云」
 【註】觀勝寺というのは、安井金毘羅宮の前身にあたる安井光明院観勝寺です。

 二つ目、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』、「松原通」中「四丁目」の記述から抜粋します。
 「其西の方  建仁寺東境藪の際を北ヘ行道あり  俗にくちなはの辻子と云  北ヘ行ば安井御門跡の前へ出る」

 三つ目、前掲書「建仁寺町通」中「毘沙門町」の記述です。
 「此町  南の辻少し西入下ル筋は建仁寺東裏の藪也  此所俗にくちなはの辻子といふ  一説に苦集滅道の転語といへども誤り也  苦集滅道は澁谷越の中に有  此筋南へ行ば松原通也」

【註1】觀勝寺: 東岩倉山(現・左京区粟田口大日山町)にあったが、応仁の乱の兵火で焼けてしまいます。しかし、江戸時代の初期に安井門跡性演が現在の東山区毘沙門町付近に再興しました。
 そして、觀勝寺とともに罹災した真性院・光明院などを統合して、東山安井の地に再興されたのが、いわゆる安井門跡(正しくは蓮華光院)と称された寺院だったのです。
 現在の東大路通の西側、安井北門通と安井金毘羅宮参道の間が安井門跡の跡にあたるようです。

 

 安井北門通

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 安井神社参道

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【註2】苦集滅道(くすめじ):「澁谷越(澁谷は瀋谷・汁谷とも書いた)」の古名で、久久目路とも作った。現在の渋谷街道(醍醐街道)にあたるもので、上記三つ目の引用文にあるように、「くちなはの辻子」と「苦集滅道」は、何らのつながりも無いようです。
 因に、「苦集滅道」は仏教で「四諦」を表す用語です。「四諦」を『岩波 仏教辞典』で調べたのですが、煩瑣にわたるため内容の説明は省きます。
 
 上記の文献記述を考え合わせた結果、「くちなはの辻子」の位置を、次のように改めることにしました。
 「北端は、祇園林、つまり「藪の下」の別称をもつ八軒町辺り(現・祇園石段下の南側)から、觀勝寺=安井門跡(毘沙門町から下弁天町にかけて存在した)の門前を経て、南端は松原通に至る小路でした。」
 現在の町名で云えば、祇園町南側・月見町・毘沙門町・下弁天町・玉水町・辰巳町を通貫していたようです。

 安井門跡の前を通る道であることから「安井道」の呼称があったのですが、狭小な道であったことから、「くちなわ(蛇)の辻子」と通称されました。
 因に、古絵図を見ると、安井門跡の門は東向き、くちなはの辻子(安井道)に面しています。そして、西側(裏)は建仁寺、というよりも安井門跡が建仁寺境内に食い込んだ形で描かれています。

 

安井神社本殿

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 現在の安井神社(通称・安井金毘羅宮)は、元は安井門跡内の觀勝寺境内西南の一角に位置したが、明治始めの神仏分離で独立したものです。(縁切り・縁結びの碑には若い女性が願をかけに大勢訪れています)
 なお、安井門跡本体はその少し後、衰退して寺号や寺地を譲って廃寺となりました。
 また、旧安井道は、安永年間に三間幅に拡幅、明治45年にはさらに拡幅延長されて東大路通となりました。

 

さらに追補:(2016.5.22)
 『京都坊目誌』の「祇園町南側」中に、くちなはの辻子の位置と変遷に関する記述を見つけたので、引いておきます。
 「八軒と稱する所 石段下南入所 は延寶の頃南に續き狭小なる道路ありて。僅かに安井に通す。之を蛇(くちなは)ノ辻子と字す。其後安永の頃 三間道路となりしが。大正元年九間に擴築し。十二月二十五日電車を通す。」としています。
 さらに、「玉水町」「辰巳町」の項には「始め小徑ありて蛇の辻子と呼」とあり、「毘沙門町」項には「元禄以前今の月見町を経て祇園町に通ずる細徑あり。俗に蛇の辻子と字す」と記しています。これらのことから《くちなはの辻子》は、北は祇園町南側(当時の八軒町俗にいう藪の下)から南は松原通の間を通っていたことが判明しました。
 そして、狭い「くちなはの辻子」が徐々に拡張されてゆき、大正元年には電車を通す程に拡げられて今の東大路通となったことが判ります。




 

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