辻子 ー松並辻子ー
この辻子は、新町通武者小路下ル一筋目を東に入る小路。
現在では一条殿町・一松町を通貫していますが、昔はそうではなかったようなのです。
『京町鑑』に、「此一条殿町東へ入 但し行ぬけなし」との記述があります。したがって、形としては珍しい行き止まりになっている辻子だったようで、現在のように一條殿辻子へ抜けることは無かった模様です。
辻子名称の由来として、『山州名跡志』には、「松並辻子」は西行法師が在俗の頃に住んでいた所と伝わるとしています。
北面家(御所の北面に詰めた武者集団)の松波氏は西行の末裔にあたり、松並は松波を書き誤ったのではないかと記すが、実録は見ていないと断っています。
また、『京都坊目誌』では、松並検校の屋敷があったことが辻子名の由来だとしています。
なお、ついでながら同書の「一松町」の記述に、町名由来に関わって「往事一條殿のありし所也、故に一條殿辻子と云ふ」としています。この一條殿とは、九條道家の三男實經の屋敷のことです。
話は変わりますが、新町通はその昔、町尻通との呼称したのです。
町尻殿と称された関白藤原道兼が、二条の北・新町の東に住いしたことが町尻通の由来です。
『京羽二重』に「新町通と云 いにしへ町尻殿と云し公家 二條の北に住給ひし故町尻通と云しとぞ」と記しており、『山州名跡志』にも同様の記述があります。
ところが、『京雀』では「古しへは町尻通といひしとかや 二條の北新町の東一町は関白兼家公の家也 町尻殿といひけるゆへにこの筋を町尻といひけり」としています。しかし、兼家は道兼の親父さんですから、関白藤原家のお屋敷には違いはないのですから、この異同は通り名の由来に影響を及ぼすものではないでしょう。
一方、『京町鑑』には「此通 古 上京にて町口と云 下京にて町尻といひし也 此通あらたに建つゞきしゆへ 俗に新町とよぶ」とする記述が見られます。
これは、平安京では現・新町通北部の近衛大路(今の出水通)と中御門大路(今の椹木町通)の間に修理職という役所があったようで、その門前の辺りを町口、南端を町尻と称したようです。
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