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2015年10月

2015年10月30日 (金)

突抜 ー亀屋突抜(堺町通)ー

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 『京町鑑』に「◯堺町通 ◯材木町通とも云 ◯亀屋突抜とも云」、そして「△龜屋突抜といふは此通四條邊に龜屋某とて古き町人あり依て號す今はなし」と記します。
 また、『京都坊目誌』には「▲八百屋町 堺町通錦小路下るより四條上る迄を云ふ」とし、この町名由来を「始め龜屋突抜町と唱ふ。今名に改むる年月詳ならず。」としている。

 これらの記述からして、堺町通の四条を挟んだ一帯、八百屋町、立売中之町から小石町・綾材木町にかけての一帯を亀屋突抜(かめやのつきぬけ)と称したようです。

立売中之町と小石町の仁丹町名表示板

 この辺り、東から西にかけて「立売東町」「立売中之町」「立売西町」と続いています。
 町名のいわれについて、『京雀』には「そのかみ上京のごとく絹布を商ける故に世に立賣と云」と記し、その由来は上京区の上立売・中立売・下立売と同じだとしています。
 『京町鑑』には、「(略)立賣といふ事は中頃此邊荒廃し人家いまだ建ざりし時  一切の商物を此所にて市を立て賣し故名とす(略)」と記しています。
 
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 また、材木町通と称した謂れを「此通押小路下ル町より三條迄が間中古材木屋敷多ありしゆへ號す今も材木屋少々有」としていています。
 そして、今も押小路通を下がった所から三条通近くまで、扇屋町・丸木材木町・大阪材木町と云った町名があり、扇屋町も寛永・寛保の頃の木版古地図では「さいもく丁」「材木町」となっていて、宝暦12年の頃に「扇屋町」と変わったようです。

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 堺町通の名称と由来について、同じく『京町鑑』には次のように記しています。
 「むかしは高倉通迄人家ありて  夫より東は原にてありしゆへ  原と町との堺なるゆへ號す」としています。
 つまり、京の町並みの東端は高倉通辺までで、その東方は野原となっていたため、町並みと原っぱの境界であったことから堺町と称したと云うのです。

扇屋町の仁丹町名表示板

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 扇はその骨に竹や木を用いているので、材木に関係しているではないかと云ってしまえば、ちょっと強引に過ぎるでしょうか?
 しかし、『京雀』では、「この筋を二條より下にてはざいもく町通といふ  四條わたりにては龜やのつきぬけといふ」としており、二條下ル「杉屋町」を寛文末の洛中洛外之圖では「材木通杉や丁」としているようです

2015年10月23日 (金)

辻子 ー大峰辻子ー

Photo

 西洞院通にあって武者小路通と一条通の間です。
 西無車小路町、大峰図子町、西之口町と元真如堂町の境界を通貫している。

大峰図子町の仁丹町名表示板

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 辻子名と町名の由来は、平安時代にあった大峰寺の旧跡に当たることによるとされる。

大峰寺と石造宝塔の由緒が記された駒札
 (写真クリックすると拡大します)

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 『山城名跡巡行志』には、「大峰寺舊跡 西洞院一條ノ北ニ在  今大峰辻子ト曰 縁起知ラズ今昔物語ニ出ズ  今モ石塔有リ  高サ六尺餘  塔面ニ佛像アリ役行者ノ作ト云イ傅」と記す。

大峰辻子の石塔祠
 役行者の作と伝えられる石塔だそうですが、今では見ることができません。
 高さが約2mの宝塔で、刻まれた佛像は表面が焼けて赤みを帯びており、判別できないと云う。

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2015年10月16日 (金)

辻子 ー常盤井辻子ー

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 この辻子は、武者小路通新町の一筋西を北行する小路です。
 現在は、常盤井図子町・元図子町を通貫して元誓願寺通に抜けるクランク状の道となっています。
 しかし、『京町鑑』には「常盤井辻子  此辻子ぬけ所なし」と記述しているのです。
 したがって、前回の記事で取り上げた「松並辻子」と同様、この辻子も元々は行き止まりとなっていたようです。
 
 辻子の名称と町名の由来に関わって、地誌から引用しておきます。
 『山州名跡志』には、「常盤井辻子 武者小路新町ノ西北ニ在リ 井水石ノ井筒有リ  土人ノ曰ク 後柏原院ノ皇子此ノ地ニ住ミ玉ヘリ  常盤井ノ宮ト號スト」と記します。
 そして「案スルニ常盤ハ不變ノ義ナリ」として、皇子が常に変わらず湧き出る清泉(常盤井)のある地に住されたことから常盤井宮と称したのだろうとしています。

 一方で、『京羽二重織留』には、次のように記しています。
「西の洞院一條の北にあり  今其所ときわ井の辻子と云  いにしへ常盤井の相國實氏公の第宅此所にあり  井水今にあり」とあって、やはり、常盤井の井水に由来するとしています。
 常盤井相國實氏というのは、鎌倉前期の公卿である西園寺實氏のことで常盤井相國と号していました。号は井水常盤井の湧く地に住いする相國と云うことなのでしょう。
 『京町鑑』でも、「此町  常盤井相國の御居館の舊地也」としています。
 太政大臣・左大臣・右大臣の唐名が「相國」なのです。しかし、ここでいう相國は、もちろん平安後期の武将である平相國清盛のことを指しているのではありません。清盛の亭は方広寺大仏殿の辺りにあり、別荘の八条殿は現在の西大路通八条にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)一帯がその跡地に当たるようです。

2015年10月 9日 (金)

空・光・水・風  その10

 説明は抜きでスッキリ?いきます。

 夏の名残

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 野分の前触れ

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 里の秋

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2015年10月 2日 (金)

皀莢の木 ー西海子町と木之元町ー

 東山通(東大路)三条に東山通を挟む両側町として、「西海子町(さいかいしちょう)」があり、その南に隣接して「南西海子町」があります。
 「西海子町」の町名由来は、昔の呼称「皀莢町(さいかしちょう)」が、転訛と当字により「西海子町(さいかいしちょう)」に変化したと云われます。
 また、「木之本町」は、「南西海子町」の南側に位置しており、やはり東山通に面した両側町でしたが、のちに「北木之元町」と「南木之元町」の二町に分離しました。

南西海子町(仁丹町名表示板)

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 それでは、元の「皀莢町」という名はなぜ付いたのか。
 『山州名跡志』には、「長田首塚 今ハ無シ。其所白川橋ノ西三町三條ノ南二條(ふたすじ)ニアタル街(ちまた)南方(みなみがわ)人家ノ後也 長田ハ源義朝ノ怨(あだ)ナリ。 首ヲ此所ニ梟(かけ)シト云フ。 初メ塚ノ上ニ皀莢ノ古木アリ。 仍テ其東三條及其南ヲ皀莢町ト云フ」と記しています。

 註1:  長田ハ源義朝ノ怨(あだ)ナリ ⇒ 平安末期の源氏の武将、源義朝(頼朝・義経の父)は平治の乱に破れて都から落ち延びる途中、尾張国で源氏の家人である長田忠致の裏切りにより謀殺された故事を指す。
 長田忠致は、平家からの恩賞目当てに頼朝の父を殺したものの、やがて後には頼朝の命により殺害される。その首を埋めたのが長田塚だと伝わる。
 註2:  皀莢(さいかち) ⇒ マメ科の落葉高木で30cm程にもなる莢(さや)は、昔は石鹸の代用とされたようです。アルカリ分を含まないため、絹の着物を洗っても痛まないので今も利用されるとのこと。

南木之元町(仁丹町名表示板)

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一方、『山城名跡巡行志』では、「長田首塚 三條通ノ南  木ノ本町ニ在 塚ノ上ニ皀莢ノ古木有  之ニ因テ此ヲ皀莢町ト名ヅケ  此所ヲ木ノ本町ト云  長田ハ源ノ義朝之怨也  首ヲ此所ニ梟ケ  後ニ塚ト為ス  今ハ亡シ」としているのです。

はてさて、この記述では長田塚のあった場所は皀莢町か?、それとも木ノ本町か?、ハッキリしろよ!と言いたくなります。
しかしこれは、長田塚が皀莢町と木ノ本町との境界付近にあり、その塚の上にあった皀莢の古木が両町の名称の由来となった。このように読み解くとスッキリするように思われます。

なお、上京区西堀川通上長者町上ルにも皀莢町があります。やはり、昔この地に皀莢の巨木があったことが由来だと云うことです。

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