突抜 ー和泉殿突抜通(醒ヶ井通)ー
現在の醒ヶ井通は、北は六角通から南が五条通までの通りとなっています。ただし、蛸薬師通と錦小路通の間は中断している。
しかし、かつての醒ヶ井通は五条通から南へも通じていたのですが、先の戦争の折に建物疎開で堀川通が拡張された時、花屋町通以南は堀川通に吸収されるかたちで無くなってしまいました。
小泉町の仁丹町名表示板
看板や配線パイプの陰になっていて見難いのですが、表示は「下京區 醒ヶ井通五條上ル 小泉町」となっています。
醒ヶ井通という通り名の由来は、『京町鑑』には「此通五條下ル二丁目西側人家の間に名水あるゆへに號す」としていて、名水の名前である左女牛井(さめがい)に因んでいます。
そして和泉殿突抜について、「錦小路より魚棚下ル所迄和泉殿突抜通といふは 北の行あたり藤堂和泉守殿御やしき有ゆへ也」と記し、和泉殿突抜通という別称があったとしています。
和泉殿突抜通
白っぽくてよく見えませんが、突き当たりに堀川高校が建っており、ここが藤堂和泉守殿の屋敷跡です。
通りの名称由来となった左女牛井は、村田珠光・織田有樂斎などの茶人が愛用した名水で、醒ヶ井通六条上ル佐女牛井町にありました。
左女牛井跡碑
この名水は、先に記したように疎開のために消滅してしまいました。今ではその名残が堀川通の西側にある東急ホテル敷地の道路際に「左女牛井跡」碑として建っています。
佐女牛井町の仁丹町名表示板
醒ヶ井通の北の突き当たりに藤堂和泉守の屋敷があったこと、錦小路通から南の魚棚(現・六条通)を下がった西本願寺(花屋町通)までを和泉殿突抜通との別称があったことは先に記した通りです。
この別称の由来となった藤堂和泉守屋敷は、古地図を見るとその四囲は、北は蛸薬師通・南は錦小路の間、東は空也堂・西側は堀川となっており、その屋敷跡は現在では京都市立堀川高校となっています。
空也堂
それはそうと、醒ヶ井通の北端を一條通としている地誌もあるのです。
(以下については、'14.10.17の記事「通り名のいわれ ー醒ヶ井通ー」では、全く触れていなかった事です)
『京羽二重』の「醒井通」項に、「此すじに當る一條どをり下る町ニ町有 松の下と云 叉誓願寺通と四條坊門との間一町越後突抜町と云 叉錦小路通より南へ西本願寺まで此通錦の小路に藤堂和泉守殿屋敷有之ゆへに和泉殿つきぬけ通とも云」
『京雀』でも「いつみどのつきぬけ通」として、「四條ばうもん通さがる町 ほり川おもてよりひがしへ半町のあひだは 藤堂和泉守殿御屋しきある故に町筋の名とせり 此筋の北は一條通行あたり也」と記します。
(註)上記の2書にある、誓願寺通は現・六角通、四条坊門(四條ばうもん通)は現・蛸薬師通のことです。
« 看板いろいろ その8 | トップページ | 路地(ろーじ)ーそのいろいろー 13 »
「仁丹町名表示板」カテゴリの記事
- 町(まち)から町(ちょう)へ ー地域構造の変化ー(2023.07.14)
- 白雲の練貫座 ー京都機業の盛衰ー(2023.05.19)
- 白川(白河)⇒ 岡崎(2023.03.24)
- 東京の木製仁丹町名表示板 その3(2022.11.25)
- 東京の木製仁丹町名表示板 その2(2022.11.11)
「町名・地名の由来」カテゴリの記事
- 淀・淀城そして淀川(2023.10.20)
- 岩 神 ー禿童石(かむろいわ)ー(2023.09.22)
- 白雲の練貫座 ー京都機業の盛衰ー(2023.05.19)
- 宝永大火と京都の整備改造(2023.04.07)
- 白川(白河)⇒ 岡崎(2023.03.24)
「辻子(図子)・突抜」カテゴリの記事
- 辻 子 ー宇賀辻子ー (補訂)(2019.07.19)
- 突抜 ー社突抜町ー(2019.06.07)
- 突抜 ー相国寺突抜ー(2019.03.08)
- 突抜 ー常盤井殿突抜町ー(2019.02.22)
- 突抜 ー稲荷町突抜ー(2019.01.11)
コメント