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2016年2月

2016年2月26日 (金)

看板いろいろ 番外編の4

今回の看板番外編シリーズは、今日で一応の一区切りとなります。

次の4点は、いずれも台東区「谷中ぎんざ」にて

後藤の飴

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邪悪なハンコ屋

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初音屋
 この猫は飾り物ですが、なぜか一帯では本物の猫も沢山見かけました

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「夕日だんだん」から谷中ぎんざ商店街を望見

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2k540    AKI-OKA  ARTISAN にて
 台東区上野5-9-34
 工房とショップの一体化した店が多数入っている

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2016年2月19日 (金)

辻子 ー瑞龍寺辻子ー

瑞龍寺辻子

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 古地図(慶応4年刊「改正京町御絵図細見大成」)を見ると、堀川通の西、今出川通と元誓願寺通の間を南北に瑞龍寺門前丁があります。瑞龍寺の門前に位置していることから、瑞龍寺辻子と称したものと思われます。
 これは、位置的には西陣織会館(堀川通今出川下ル西側の竪門前町)の西側あたりで、西船橋町・竪門前町・南門前町を通貫するかたちで南北に通っていたようですが、今では消滅しています。
 上の写真は近辺の小路ですが、瑞龍寺辻子が現存すればこのような佇まい雰囲気でしょうか。

 『山城名跡巡行志』に、「瑞龍寺 堀川一條の北に在り村雲御所と號す  宗旨法華の尼寺也  今二條家領と傳也  関白秀次公の母公瑞龍院尼公の草創也」と記しています。日蓮宗では唯一の門跡寺院だったということです。

 豊臣秀次は、秀吉の養子となり関白に任ぜられました。しかし、秀吉に実子の秀頼が誕生すると、高野山に追放されたうえ、切腹まで命ぜられました。何と惨いことに、妻子までもが三條川原で処刑されました。

村雲御所(瑞龍寺)跡碑

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 秀次の母(秀吉の姉にあたる)が秀次追善のために建立したのが瑞龍寺で、のちに徳川家の支援を受けて増築されます。皇室や摂関家からの入寺もあって、付近一帯を村雲と称した地であったことから、瑞龍寺を村雲御所と称したという。
 なお、瑞龍寺は後に移転して、現在では滋賀県近江八幡市の八幡山山頂にあります。

 『京町鑑』に、堀川通今出川下ル「村雲町 古此邊は村雲といへる地名也  故に町の小名とす」としています。

村雲町の仁丹町名表示板

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2016年2月12日 (金)

看板いろいろ 番外編の3

まちのえき
 東京文京区 本郷菊坂
 本郷を散策するの人々のために「NPO  雑歩庵」が運営する休憩所です。

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ムラヤマメガネ店
 広告入り地名表示板

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 次の2点は看板ではありませんが、上の広告入り町名表示板の流れで・・・。
 どの特別区も記入内容と配置はほぼ共通していますが、区名の入れ方・地色に違いがあります。

文京区 本郷四丁目の地名表示板
 菊坂にある樋口一葉の旧家跡近辺で

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墨田区 東向島三丁目の地名表示板
 向島百花園近辺で

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2016年2月 5日 (金)

辻子 ー了頓辻子ー

 「了頓辻子」は、室町通と新町通の中程(衣棚通の南にあたる)を、三条通から六角通へと南行する小路。
 衣棚町・了頓図子町・玉蔵町を通貫しています。
 『京羽二重』では、「室町通と新町の間  三條下ル所六角通へ抜ル」と記しています。

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 辻子名と了頓図子町の名称は、この地に茶人であった広野了頓の屋敷があったことに由来します。
 了頓の祖先は足利氏の家臣だったようです。
 なお、『京雀』によれば、了頓辻子には「連忍の辻子」という別称もあったようです。(「衣棚突抜通」の項の「長はま町」)

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 辻子名の由来となった広野了頓について、地誌書から引用しておきましょう。

 『京町鑑』に、「天正年中 了頓といふ富商有て 専茶道を好しゆへ 太閤秀吉公御入有て 御扶持抔給はりし由舊記に見えたり 此家今はなし」

 『京羽二重織留』には、「廣野了頓宅 三條の南室町通と新町の間にあり  傅云了頓祖はもと足利家の從臣にして  義晴公義輝公の時傳領の地にありしが  末裔に至て民間に流落して此所に住居せり  了頓はなはだ茶道を好み侍りし  一日豊臣秀吉公播州姫路の城より入洛の日  伊藤道光宅に入御し給ふに  伊藤と了頓其家居もちかく同友なれば  了頓が茶を嗜事を秀吉公きこしめし給ふ  不時に了頓が宅に入給ふに  了頓茶亭に請し奉り御茶を献じ奉るとぞ  秀吉公了頓が平素心ざしを感じ給ひ  此時家領少許を給ふ  其末孫今にいたりて此所に住し侍る也」

 なお、茶の同友である伊藤道光については、前掲書に「新町三條の南伊藤の町にあり  傳云豊臣秀吉公いまだ天下をしろしめさゞるとき  入洛の日かならず道光が宅に宿し給ひしと也  道光は京師にありて洛外所々秋米収納の事を支配し侍ると  今の代官所の類なるべし」とあり、伊藤道光は米(租税)の収納事務を司る役人であったようです。
 また、この近辺の菊水鉾町(四條室町)には、やはり茶人で文化人としても知られた大黒庵武野紹鷗の屋敷もあった。

 ついでながら、衣棚通(衣棚町)の名称由来について触れておきます。
 『京町鑑』に、「此通古 三條上ル町に袈裟衣商ふ店多く有によって衣店といふ 然るにいつの頃よりか店を棚に事かへたり 今も三條邊に衣屋あり」と記しています。
 このように、多くの衣屋があったことが町名・通り名の由来となっています。
 なお、衣棚通は豊臣秀吉による京都改造で造られた通りで、三条通から北に通じています。

追記:2016.5.17記す
『京都坊目誌』の「了頓ノ辻子町」を眺めていたところ、次のような記述を見つけました。
「(略)。同町西側中央より新町に出る間路あり。之をれんにんの辻子〈文字不詳〉と號す。〈延寶六年町鑑〉寶永五年大火の後之を閉塞す。」
「れんにんの辻子」が、了頓辻子に接して、西方の新町まで通っていたと言っています。

 

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