2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月

2016年3月25日 (金)

空・光・水・風  その11

Dscn2576_01

Dscn2581_01

シルエットはポット・スチル(Pot still)
 モルトウイスキーなどの単式蒸留釜です

Dscn3417_01

Dscn3326__01

Dscn3337__01

2016年3月18日 (金)

辻子 ー長福寺辻子ー

 長福寺辻子について、『京羽二重』では「からす丸通たこやくし通下ル町  にしがわ也」と記しています。
 しかし、この辻子は現在では消滅しています。
 烏丸通から、手洗水町・占出山町・山伏山町を通貫して、室町通へと抜ける辻子だったようです。
 訂正しました。記事末尾の【註】をご覧願います。

 

京都芸術センター(明倫小学校跡)
 長福寺辻子は、このあたりを東西に通じていたのではないかと思われます。

 

_01

 

 そして、長福寺辻子の名称由来は、この手洗水町の西に長福寺という寺があったことによる。
 ところで、この長福寺は秀吉の京都改造の折りに、松原通大宮西入ル辺りに移転したようです。そして、長福寺に因み移転先の町名も始め長福寺町と称したのですが、後には現在のように上長福寺町と下長福寺町に分かれました。

 

 なお、手洗水町の名前の由来について、『京町鑑』には「此町東側中程に祇園會手水井有  毎年六月七日より十四日迄此井をひらく  水至て清冷也  常には柵をゆひ汲ことあたはず  是いにしへの祇園御旅所の跡也」と記しています。

 

 占出山町は、祇園祭で占出山を出している町ですが、『京雀』では鮎祝山(あいわいやま)という別称があったとを記しています。 
「鮎祝山の町(あいわいやまのちょう)  六月七日ぎおん會の祭禮に此町よりかざりてまつる  山の名を世にあいわい山といふ むかし神功皇后三韓を責めしたがへすでに歸陣あり  肥前國にして川中の石の上に立給ひ釣針をおろし給へば  あやしき魚のかゝりてあがりけるを  皇后みそなはしてめづら物也との給しより  その川をめづら川といひけるを  後に五音相通して松浦(まつら)川となづけ其里を松浦の里といふ  かの釣あげられし魚は鮎にて侍べり  其形を山に作りてまつれり  此故に町の名とす」

 

 山伏山町は祇園祭に山伏山を出している町で、『京雀』には「此町祇園會六月七日の祭禮に山をかざり渡す此山は淨藏貴所といふ人大みねかつらぎに入ておこなひ給ふところをつくれり」としています。

 

山伏山町の仁丹町名表示板

 

_01_2

 

 大峰山で修行していた淨藏貴所が、折しも死亡した父の三好清行の葬列と一條戻橋で出会い、祈って生き返らせたと云う一條戻橋の故事は有名です。

 

【註】勘違いがあったため訂正します。 (2016.11.7)
 冒頭に書いたように、烏丸通から室町通へ抜ける辻子と理解していました。
 しかし、『京都坊目誌』の「手洗水町」の項に次の記事があり、袋小路の辻子であったことが判明しました。
 「(烏丸通の)西側に市有地の袋地たる道路あり、長福寺ノ辻子と字す。」
 また「明治44年道路敷を拂下け民有に帰し、長福寺辻子は遂に滅せり」と辻子の無くなった時期・理由も記しています。

2016年3月11日 (金)

暖簾いろいろ その9

宗 禅
 上京区寺之内浄福寺
 あられ・せんべい
 
_01_2

華 憧
 上京区寺之内通浄福寺東入
 舞子サンに変身させてくれる店

_01_3

加納幸
 上京区上立売通堀川東入
 帯・着物・和装小物(西陣織)

_01_4

泰流舎
 上京区寺之内通千本東入
 着物・帯など(西陣織御召)

_01_5

小川英  
 上京区 上立売通大宮西入
 綴れ織り(西陣織)

_01_6

2016年3月 4日 (金)

春帯町のこと

 「春帯町」は、上京区新町通の下立売〜丸太町間に位置する町です。
 中世には、新町通下立売下ル辺りに清帯寺という寺があり、本尊の地藏菩薩は腹帯地藏といわれた
 懐胎した女の人はこの腹帯地藏に安産を祈願して、庶民の信仰を集めていたことから、一帯を「腹帯ノ町(はらおびのちょう)」と称していた。これが、現在の「春帯町(はるおびちょう)」の前身なのです。
 (現在の春帯町は、京都第二日赤病院や商店などが建ち並ぶ、およそ趣に欠ける眺めのため写真は省略します。)

 この春帯町にあった清帯寺は、天正13年(1585)に寺町蛸薬師に移転します。
 その辺りを地誌書の記述から見てみます。
 『京町鑑』は、「新町通 下立賣下ル  腹帯町  此町にいにしへ腹帯地藏有し也  今寺町たこやくしの隣に有」と腹帯町の町名由来を記し、現・新京極蛸薬師の蛸薬師堂(永福寺)の隣に移転したとしています。 
 『京童』では、「寺號を清帯寺といふなり。此地藏は土佛にて。行基の御作なり。いにしへは新町通下立賣下ル腹帯の町といふにありしを。爰にうつしたてまつる也。此地藏菩薩はくわいにんの女人平産をまもらせたまへるによりて。女性のぐわんにおびをかくるゆへ。はらおびのぢざうと申也。」と記し、腹帯地藏は土像で行基の作としていています。

 しかし、このように安産祈願で信仰を集めた清帯寺の腹帯地藏ですが、天明8年(1788)の大火で炎上してそのあと再建、元治元年(1864)禁門の変の兵火で再び堂宇・本尊を焼失し、明治6年(1873)には廃寺となったという。
 現在、中京区新京極通通蛸薬師東入ルにある妙心寺の北側がその跡地といわれる。

 医学の発達した現在とは違って、昔の女性にとっての出産は時には危険を伴う、「大事業」とも言えるものだったようです。
 そのため、安産を祈願した腹帯地藏は各地にあったようです。下記の①と②は現に存在するもの、③と④は地誌書に記載があるものです。

_01

① 善願寺
 伏見区醍醐南里町(旧奈良街道沿い)
 由緒書きによれば、聖武天皇の頃に光明皇后の発願により、行基が地蔵尊を本尊として創建したと伝わる。腹帯地藏は丈六の巨大な地蔵尊で、広く女性の難産の患いを救うとされる。
 地蔵尊の法衣の下に腹帯によく似た下裳が見えることから、「腹帯地藏さん」と親しまれているそうで、重要文化財に指定されています。

② 光念寺
 北区紫野上野町
 常盤御前が牛若丸の安産を祈願して寄進したと伝わる腹帯地藏で、これも現存します。
 紫野上野町の東隣には紫野牛若町があり、一帯に牛若丸・常盤御前ゆかりの史跡があります。
 なお、今宮神社のやすらい祭はこの光念寺が出発地となっています。

 やすらい祭

Jpg_01

 大宮上野町(現・紫野上野町)の仁丹町名表示板

_01_2

③ 『京雀跡追』の記載
 寺町にあるものと名は同じながら別の腹帯地藏だとして、「是は三條通むろ町をひがしへ入所に 北がわの西かとのうら屋にはらおびのぢさうとてあり 七月廿四日には表へ出し とうみやう供物をそなふ 參詣の人々市をなす也」とあります。

④ 『京雀』の記載
 中京区三条通烏丸西入「みくじ町」(現・御倉町か)に、「北行西の廉(かど)に腹帯の地藏とておはします 七月二十四日には貴賤群衆して参詣あり」と記しています。
 また、『京都坊目誌』でも御倉町(ミクラ)の項に、「天正の頃西北隅に腹帯地藏ありて、當時詣人頗る多し」としています。
 しかし、これは前記③と同一の腹帯地藏であろうと思われます。

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »