2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月

2016年4月29日 (金)

蹴上のこと

 「蹴上」、これは「けあげ」と読みますが地名です。
 「蹴上」は東山区粟田口の東の端にあたり、古来、東国との往来の出入り口となっていました。日ノ岡峠を越えると東側は現・山科区となります。

「蹴 上」標識(背景の建物は蹴上発電所)

_01_2

 牛若丸(源義経)が金売橘次に伴われて奥州平泉に下る時、たまたまこの地を通りかかった平氏の侍である関原輿市重春の乗馬が、水溜りの泥水を牛若丸に蹴りかけたことから両者の争闘となり、牛若丸は輿市とその家来の多くを斬り捨てたという伝承があります。
 これが「蹴上」という地名の由来だそうです。
 (註:金売橘次は奥州で産出する金を京で商うのを生業とした)

 そのあたりの様子を、『京羽二重織留』から引用しておきましょう。
 「蹴擧水(けあげのみず) 下粟田口にあり  九郎よしつね牛若たりし時  くらま山を出て  かね商人橘次末春にしたがひあづまにおもむく時  此所にて關原輿市にあふ  輿市はみのゝ國の軍士にして馬にのり京師に入る  輿市が良等あやまりて此水を蹴上てよしつねの衣を汚しぬ  よしつね其無禮をいかり輿市が良等數十人きりころし  猶叉輿市が耳はなをそいで追ひはなつ  牛若東行首途の吉事なりとよろこび給ふと云云」

 ちなみに、『岩波古語辞典』で 【蹴上げ】を引いてみたところ、「人・馬などが蹴上げた塵・泥または泥水。はね。」とあり、用例として「馬の … を掛くる事、存外なる振舞なり〈謡・関原与市〉」を挙げています。
 つまり、蹴上げ(泥水)をはね上げて浴びせるなどと云うことは、以ての外の無作法な振る舞いのため、牛若丸が激怒して関原たち主従を切り伏せ耳鼻を削いだのでしょう。
 この時、斬られた関原輿市たち主従9人の菩提を弔うため、石仏9体を安置したという。
 これら石仏の1体が、インクライン傍の義経大日如来だといわれています。

義経大日如来

_01_2

 とつぜん話は変わりますが、「蹴上」の地は琵琶湖から引いた疎水の出口となっています。
 明治18年(1885)に起工した第一琵琶湖疎水は同23年(1890)竣工します。滋賀県大津市三保ケ崎の琵琶湖から取り入れた水は、長等山の下を抜けて山科に出、また日岡山の下をくぐって蹴上で地上に姿を現します。

第一疎水の大津側トンネル入口

_01_4

第一疎水の蹴上側トンネル出口

_01_5

 明治維新による東京遷都のためすっかり衰退した京都は、この琵琶湖疎水計画の実現による水力発電で電気鉄道や新しい工場が生まれ、京都の近代化に大きな役割を果たす一歩となったのです。
 さらに、明治41年(1908)〜同45年(1912)には、本格的で大規模な都市基盤整備整備計画として、第二琵琶湖疎水の開削、それを利用した水道整備、そして道路拡幅と電気軌道の敷設といった「三大事業」が実施されました。

 

2016年4月22日 (金)

辻子 −炭座辻子ー

 炭座辻子(すみのざずし)は、錦小路通の新町と西洞院の間を南行して、四条通に至る小路です。

_01_4

 『京羽二重』には、この辻子を「にしき小路通新町にしへ入町  四條通へ抜ル」とある。
 西錦小路町・炭之座町・郭巨山町を通貫しています。
 「西錦小路町」は、錦小路の町尻小路(新町通)から西方に位置する町であることが、名称の由来となっているのでしょう。
 「炭之座町」については不明です。
 「郭巨山町」は、『京町鑑』に「一名  革棚町とも云 此町六月七日に郭巨山を出す  此町北側の辻子は地獄辻子也」と記しています。
 この町は、祇園會に郭巨山を出している町ですが、元亀年間(室町時代)の文書には革棚町とあるそうです。

 『京町鏡』には、「西錦小路町 此町北側に龜龍院ちふ眞言宗の寺有  此寺内に藥師如來有 俗呼て龜藥師といふ也  叉此町南へ辻子有 炭座辻子  一名地獄辻子とも云  此辻子南へ行ば四條通へ出る也」とあって、地獄辻子という呼称があったことを記しています。

この炭座辻子の東方には、觀音堂東辻子、別名撞木辻子がありますが、これについては以前(’12.6.22)に記事にしていますので、興味をお持ちの方はそちらをご覧ください。

 

2016年4月15日 (金)

辻子 ー大聖寺辻子ー

大聖寺辻子(「大聖寺殿辻子」とも)

_01

 黒門通の元誓願寺通と一条通の間を南北に通る辻子で、『京羽二重』に「大聖寺の辻子 黒門通一條上ル町也」とある。
 この辻子は、寺今町・毘沙門町・弾正町を通貫しています。
 『京町鑑』には元誓願寺通大宮を東に入った所を「寺西殿町」、瑞龍寺南門前町(現・南門前町)の西方を「今小路町」としている。明治元年にこの二町が合併して、両町名から一字ずつをとって寺今町としたのです。

寺今町の仁丹町名表示板

_01_2

 『京雀』には、「くろ門通一條あがる   大しやうじ殿途次  大聖寺殿は比丘尼御所也」とあります。
 現在、烏丸通上立売下ルに所在する大聖寺は、かつてはこの一帯にあって「大聖じ丁」と云っていました。
 しかし、火災で焼失して移転したため、その跡が「毘沙門町」の町地となったのです。
 辻子の名称由来は、この大聖寺の旧地であったことによります。

毘沙門町の仁丹町名表示板

_01_3

 「弾正町」は、豊臣秀吉が造営した聚楽第の周囲には諸武将の屋敷が設けられました。そして、この一帯が上杉弾正大弼景勝の邸であったことが町名の由来です。

上杉景勝屋敷跡碑

_01

2016年4月 8日 (金)

看板いろいろ その9

サントリー山崎蒸留所
  ファクトリーショップ

_01

凸 鉾(でこぼこ)
  下京区東洞院通七条上ル
  居酒屋

_01

蔵 倉(くらくら)
  下京区東洞院通七条上ル
  居酒屋

_01_2

三嶋亭
  中京区寺町三条
  すき焼きなど牛肉料理
  明治6年創業と云うので、「毛もの(獣)」の肉を大っぴらに食し初めった頃からやっているのですね。

_01_3

三笑亭
  大山崎(離宮八幡宮そば)
  天婦羅料理
  西国街道沿いの山城と摂津国境の関所跡にある元旅籠

_01_4

2016年4月 1日 (金)

辻子 ー定家辻子(殿下辻子とも)ー

 今出川通千本東入 一筋目(西陣郵便局西側の通り)を南行して中筋通に出る間。  
 般舟院前町・東上善寺町の境界、および、西亀屋町・中宮町の境界となっている南北の小路です。

_01

 般舟院前町の町名由来は、豊臣秀吉が伏見城下町建設のため文禄4年(1595)に般舟三昧院をこの地に移したことによる。

西亀屋町・中宮町の仁丹町名表示板

_01_2

_01_3

 『京町鑑』には、辻子の位置を「東上善寺町南へ行一丁有 定家辻子  此町いにしへ定家卿の御別館有し舊地なりとぞ」と記していて、この地に藤原定家の時雨亭があったとする。このことが辻子名称の由来なのでしょう。
 なお、定家辻子には殿下辻子という別称もあったようで、「西亀屋町より北ヘ行所を 殿下辻子  此辻子を北ヘ行ば般舟院門前へ出る」とあります。

 『京都坊目誌』には、般舟院前町を「舊時時雨町とも呼ぶ」とし、そのまえには時雨町と呼んだことがあり、「時雨」は定家邸にある亭の名だと云う。

 ところで、時雨亭があったとされる所は各所にあるようです。しかし、今のところどこがその地なのかは定かではありません。
 『京羽二重織留』の「時雨亭(しぐれのちん)」項では、所在したとされる各所について記述があります。
 この記述は短いものではありません。このため、読者の方々に読む煩わしさを避けていただくために、要点だけを摘記しておきます。
1. 千本舊歓喜寺の中、始千本の南頬にあり(千本通今出川下ルあたりと思われる)
2. 般舟院(正しくは般舟三昧院)南の定家辻子の辺(上記、定家辻子)
3. 相国寺塔頭の普廣院
4. 嵯峨小倉山麓の常寂光寺

 そして『山州名跡志』にも、次のように記しています。
5. 衣笠山東麓の東南、松原村の北ニ町許(現在の衣笠小松原北町辺りか)

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »