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2016年6月24日 (金)

阿弖流為(アテルイ)のこと

 古代の大和朝廷から見ると、蝦夷地(東北地方)は、戦に必要な資源である馬や鉄、そして金などを産する魅力的な地域でした。朝廷の権力者は蝦夷地とその住民(蝦夷)を支配下に置くため、大和朝廷の時代からたびたび蝦夷討伐を行なってきましたが、奈良時代になると激しさを増します。
 延暦8年(789)、巣伏村(現・水沢市辺り)で征東将軍の紀古佐美の率いる朝廷軍と、阿弖流為(蝦夷の指導者で阿弖利為とも)の率いる蝦夷軍が戦い、朝廷軍が大敗するという「巣伏村の戦い」が起こりました。この戦は、朝廷の権威が傷ついたばかりでなく、蝦夷地支配の計画を根底から揺るがす重大な事件として、蝦夷征伐の機運がさらに激しさを増していきます。(『続日本紀』)

 

阿弖流為と母禮の顕彰碑(清水寺境内)
 清水寺の創建は宝亀9年(778)で、平安京建都の延暦13年(794)よりも前ということになります。

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 ところが、蝦夷の人々は言語や風俗が和人とは異なり、朝廷による度重なる侵略にも容易に服属しようとはせず、強く抵抗をつづけました。

 強大な朝廷軍を相手とした10年余りに及ぶ抵抗で蝦夷は疲弊します。そこで、蝦夷住民の安泰を望んだ阿弖流為と盟友の母禮(モレ)は、延暦21年(802)投降を選択して、朝廷の統治下に入ります。
 征東副使の坂上田村麻呂に伴われて、阿弖流為と母禮は都へと向かいます。
 田村麻呂は、二人(阿弖流為と母禮)の武勇と人物を惜しむとともに、支配下に収めた蝦夷地の経営には両名の協力を得る必要があるとして、胆沢へ還すように朝廷へ助命を進言したのですが聞き入れられません。
 そして、朝廷に抵抗した反乱軍の首謀者として河内國椙山(現・大阪府枚方市)で斬殺されました。(『日本紀略』)

 

阿弖流為と母禮の説明文
 (写真をクリックすると拡大して見られます)

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 《史書》は権力者・覇者によって書かれますから、常に正義は勝者にあって敗者は悪とされてしまいます。

 朝廷の側が版図を拡げるために蝦夷征伐の軍を派遣して侵略したのですが、侵略された側の蝦夷は朝廷に服属することを忌避して抵抗したのです。
 したがって、蝦夷の人々は朝廷に対して反乱を起こした反逆者ではなく、ましてや、都まで攻め上って行って戦ったのではないのです。
 ですから阿弖流為は、討たれるいわれの無い蝦夷の人々とその土地を守るため、侵略に抵抗して戦った英雄だったのです。
 そういう阿弖流為ですから、今までに歌舞伎・映画・テレビドラマ・アニメで、「北の英雄」として演じられ描かれてきました。近くは、明6月25日から「シネマ歌舞伎」として、市川染五郎主演の「歌舞伎NEXT  阿弖流為」が各地で上映されます。




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