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2016年7月

2016年7月29日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 14

いずれも北区で見かけたものですが、路地と云うにはためらいを感じるものが含まれています。

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2016年7月22日 (金)

辻子 ー西本願寺辻子ー

西本願寺辻子

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 『京町鑑』には、「西本願寺と興正寺の間也  即西へ壹町ほど辻子を行即西本願寺臺所門の前へ出る  其所を南へ出れば七條通也・・(略)・・扨叉右臺所門前をすぐ西へ行ば大宮通へ出る」とあります。
 この記述から、辻子の位置は北小路通の堀川から大宮通にかけて、東西に通っていたことが判ります。しかし、その所在は判るのですが名称が載っていません。

 辻子の北側は門前町、南側は花園町・西八百屋町・大工町・御器屋町があって、辻子はその境界を為しています。
 寺社の門前や傍を通る辻子には、その寺社の名称を冠していることが多いので、それに倣ってこの無名の辻子を「西本願寺辻子」と勝手に名付けました。

西本願寺四脚門(唐門)
 この唐門は辻子に面して建っています。
 勅使門と称し、桧皮葺の唐破風作りで寛永7年に伏見城から移築されたという。
 左甚五郎の作と伝わる花鳥等の彫刻で装飾されています。しかし、経年劣化で漆・金粉などの彩色がかなり剥落してはいますが、今もなお往時の豪華な様子を窺わせます。

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 つぎに、いくつかの町名について、『京都坊目誌』からその由来を見ておきましょう。
 「門前町」は、明治2年に上地していた本願寺境内が、同6年12月に「本願寺門前町」と名付けられ、略して「門前町」と呼ばれるようになった。
 「御器屋町」は、本願寺が大坂の天満から移転した時、紀州黒江の塗器商である御器屋甚右衛門と云う商人が共に移転してきてこの町に住みついた。そして、同寺の注文を受け膳椀器具を製造して納めていた。
 真宗では供膳の仏器を御器と称したことから町名になったと云う。
 「大工町」は、足利氏の元家臣であった水口某と云う者が、本願寺の棟梁となってこの地に住んだことが町名の由来だとする。

2016年7月15日 (金)

辻子 ー鎗ノ辻子ー

鎗ノ辻子(跡)

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 この辻子、現在では京都御苑に取り込まれてしまい無くなっています。
 京都御苑の乾御門から入ると、左手(北西辺り)に児童公園がありますが、往時、辻子はこの辺りを南北に通っていました。

現在の乾御門

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 「鎗ノ辻子」があった場所を絵図で見ると、次のようでした。
 烏丸通から少し東に入り込んだ位置にあった乾御門の前から、北方の今出川通へ出る南北の小路だったようです。
 「鎗ノ辻子」の東側は近衞殿屋敷・舟橋殿屋敷が、西側は一條殿屋敷の北端・堀川殿・久我殿といった公卿屋敷に挟まれているのがわかります。

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 【註:上の写真は、伊東宗裕著『京都古地図めぐり』所載の「文久改正内裏御絵図」を写真撮影のうえ、辻子部分を中心にトリミングしています】

 上記絵図の全体図からは、江戸時代までは天皇の住む禁裏御所・上皇法皇の住まう仙洞御所を中心に、五摂家(近衞家・九条家・鷹司家・一條家・二條家)、天皇の親戚である宮家(有栖川宮家・桂宮家など)、昇殿を許された公卿家の屋敷町が取り巻くように建っていた様子が見て取れます。

 現在見る京都御苑のように、今出川通・烏丸通・丸太町通などの外周が、築地塀や石垣で囲われたのは、明治2年に実質的な東京遷都が行なわれて以降のことなのです。
 それ以前の御所西側がどのような様子だったか、各種絵図で見ると次のようなことが判ります。
 御所の正門にあたる中立売御門は現在と同じく烏丸通に面していました。
 しかし、乾御門・蛤御門(新在家御門)・下立売御門は少し東へ引っ込んだ位置にありました。
 なお、蛤御門と御苑の東側にある清和院御門は、現在とは違って南向きに建っていたようです。

2016年7月 8日 (金)

辻子 ー宗仲辻子ー

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 堀川通寺之内上ル 一筋目を西行して行き当たりを寺之内通に抜ける鉤型の小路。
寺之内竪町・東西町を通っています。

 『京町鑑』は、「下天神町を南へ出る町を  妙蓮寺突抜町 叉一名宗仲辻子とも云」としており、妙蓮寺突抜町というのは現在の妙連寺前町です。

 『京羽二重』では、「宋忠辻子  天神の辻子にしへ入所」とする。天神辻子は、鞍馬口通堀川西入ル 一筋目を南行して堀川通に抜け、上御霊前通の少し南(寺之内竪町との境界)までをいう。

 『京都坊目誌』によれば、「寺之内竪町」の町名由来を「寺之内の竪(たて)にあり故に號く。寺之内と云ふは安居院の寺内と謂ふ意也」と記しています。
 そして、「東西町」については、「始め寺之町内と稱す。寺之内とは安居院の舊地を貫通し道路を拓きしより名とす。」とし、さらに「其後 寺之内横東半町  横西半町に分る 叉 北方に當町より折れて堀川に通する小街あり。突抜町と號す世俗妙蓮寺突抜と呼ふ。正徳四年の圖にそうくの辻子とあり。・・・(以下略)・・・」とあって、明治維新に上記の3町を合併して「東西町」となりました。
 そして、上記引用文中のそうくの辻子と云うのは、宗仲辻子のことと思われます。

東西町の仁丹町名表示板

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註:記事中の「安居院」とは
 平安末期の頃、延暦寺の里坊である竹林院のあった所とされるが、その所在地については現在の大宮通寺之内辺りとも大宮通上立売あたりとも云われるが不詳。
 この「安居院」の読み方には、あぐい・あぐいん・あごい等いろいろ見られるようですが、この地一帯の地名としても用いられてきており、現在の「前之町」は元禄9年刊「京大絵図」で見ると「安居院前町」となっています。
 なお、「安居院」という名称は、以後の辻子シリーズにおいても度々出てきますので、記憶に留めておいてください。

2016年7月 1日 (金)

空・光・水・風 その13 

枯れ蓮

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噴 水

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シバザクラ

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石 塔

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