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2016年10月28日 (金)

消えた大宮通  3の2

2.  聚楽第外堀に沈んだ大宮通

 今回は、聚楽第(聚楽城とも云われた)の築造による、大宮通の変貌に焦点を絞ってみます。
 聚楽第は、豊臣秀吉が天正14年(1586)に着工して翌年に完成しますが、僅か9年後の文祿4年(1595)には破却されてしまいます。
 聚楽第の規模・範囲については不明な点が多く、諸説があって定まっていないようです。

 幾つかの地誌等を見ると、北辺は一条通とすることでは概ね共通しているように見受けられます。
 そして、東辺は大宮通とするものが多いようです。(『京町鑑』『菟芸泥赴』『京都坊目誌』『都名所図会』など)
 堀川通を東辺とするもの(『京羽二重織留』『雍州府志』)もありますが、これは、その一帯には如水町・飛騨殿町・常陸町・藤五郎町などなど、秀吉に臣従した諸大名の名前に由来する町名が多数存在することから、聚楽第周辺の大名屋敷をも含めた範囲を云っているのでしょう。

如水町・常陸町の仁丹町名表示板
 如水町の名称は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の黒田官兵衛(如水)屋敷跡であることが由来です、常陸町は木村常陸介重茲の屋敷跡です。

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 というわけで、一条大宮の辺りが聚楽第の北東角であったと見ても、一概に不当とは云えないと考えますが、どんなものでしょう。
 また、京都府教委文化財保護課と京大防災研が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査(昨2015年10月から今年1月にかけて実施)によれば、本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。
 そして、その折れ曲がった外堀のうち最も東側に突き出した部分が、大宮通の一条から下長者町にかけての一帯に当たるようです。
 こうしたことが、聚楽第東側の外堀跡にあたる現在の大宮通一条から下長者町通の間、およびその東側一帯の家並みの形成に関係しているようです。

 冒頭に引用した『京都坊目誌』の記述にあるように、応仁・文明の乱以後の京都の町、ことに北部はすっかり荒廃していましたが、道路だけは通じていたようです。
 その荒廃した内野の地に聚楽第が築造されたため、大宮通のうち一条通から下長者町通までの間が、聚楽第東側の外堀に取り込まれてしまったことで、この間の部分が途切れてしまうことになったのです。

 このように、東の外堀が造られたことで大宮通が部分的に姿を消したため、その東側にある黒門通との中間にそれに替わる道路を新しく開通させました。その道が現在では、「元大宮通(旧大宮通とも)」と通称されている道だったのです。
 そして、聚楽第が破却されたあと元々の大宮通が復活したことで、両方を区別する必要からこの道を元大宮通、復活した道を元通りに大宮通と称したのでしょう。

現在の元大宮通の光景

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藤五郎町の仁丹町目表示板
 「舊大宮通」の表示です。
 「藤五郎町」は、織田信長の家来で本能寺の変の後に、豊臣秀吉に仕えた長谷川籐五郎則秀の屋敷跡です。

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