3の2" />  3の1 - 酒瓮斎の京都カメラ散歩" />  3の1 - 酒瓮斎の京都カメラ散歩" />
2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 看板とポスター | トップページ | 消えた大宮通  3の2 »

2016年10月21日 (金)

消えた大宮通  3の1

 今回の記事は、少し長くなったため3回に分けてアップします。
 次回は「2.  聚楽第外堀に沈んだ大宮通」
 最終回を「3.  よみがえった大宮通」とします。

1.  平安京の大宮大路
 平安京が造営されたとき、大内裏の東側に接して開かれたのが大宮大路(東大宮大路とも)でした。南北に貫通する大路で、十二丈の道幅があったと云いますから36m余りの大路だったのです。
 そして、現在の大宮通は、この大宮大路にほぼ該当するようです。
 平安時代の大宮大路(現・大宮通)は、北は一條大路(現・一条通)から南の九條大路(現・九条通)まで通じていた道でした。しかし、これが南北に延伸した時期は定かではありません。
 ちなみに、現在の大宮通は北は御薗橋通から久世橋通の一筋南に至っています。

 この大宮通について、大正4年(1915)刊『京都坊目誌』は、次のように記しています。
 「北は安居院今宮旅所前 [愛宕郡大宮村のうち} に起る。之を大宮頭と稱す。南 九條に至る。凡そ古の東大宮大路に當る。一條以北の開通年月詳ならず。其以南は延暦中開通す。文明以來荒廢せしも。道路のみは通せしが如し」、安居院というのは今の大宮通寺之内一帯、また付近の大宮通を云います。

 そして、寛文5年(1665)刊『京雀』には、「北のゆきあたりは今宮の御旅町とて西東一町あり(中略)そのわたりに大宮權現のやしろあり此故に町筋の名とす」と大宮通の名称由来を記しています。

大宮權現=久我神社

_01_4

_01_2

 上記引用文中の「大宮權現」というのは、かつては大宮の森と通称された地にある現在の久我神社(北区紫竹下竹殿町47)のことで、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社となっています。
 大和国葛城山を根拠地とした豪族の賀茂氏は、山代国岡田の賀茂(相楽郡加茂町)に進出、ついで木津川を北上して桂川と賀茂川の合流点に辿り着き、さらに伏見の久我から賀茂川を北上して現在地に定着しました。そして、それぞれの地で鴨神社・久何(久我)神社の名が踏襲されたようです。
 なお、現在の大宮通は、久我神社の東側を通っていますが、元々は社前(西側)を通っている道が大宮通(現・大徳寺道)だったようで、今でも地元ではこの道を旧大宮通と称しています。
 また『京雀』によれば、大宮通を洛外に出るとその先は、「御旅町の西  むらさき野大徳寺に行道なり  その北は今宮紫竹大門鷹が峯にゆく(中略)そのすゑは萬壽峠より岩やの不動へまいる道あり(中略)東寺の二王門のすこし西のかたより南へゆくは  淀鳥羽の道にて大坂までも連たり(中略)叉九條通直に西にゆけば桂川より津の國山崎」へと続く街道だとしています。

東寺(教王護国寺)南大門

 大宮大路の南端にある東寺は、平安京遷都の際に西寺とともに造営された二大官寺の一つで、南区九条町(九条大宮)に所在する真言宗寺院です。 
 丈が1丈の金剛力士2像(運慶湛慶作)を安置していたので二王門とも称された。しかし、明治元年10月21日の例月法要の夜の失火で門と共に焼失。明治28年に蓮華王院(三十三間堂)の西大門である九頭竜門を移築したと云う。重要文化財。

_01_5

東寺五重塔

 国宝で高さが54.8mあり、木造の塔としては日本一だそうで京都のシンボルとなっています。

_01_3

« 看板とポスター | トップページ | 消えた大宮通  3の2 »

町名・地名の由来」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 看板とポスター | トップページ | 消えた大宮通  3の2 »