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2016年11月 4日 (金)

消えた大宮通  3の3

3.  よみがえった大宮通

 文禄4年(1595)に聚楽第が破却されてその跡地一帯が町地化すると、大宮通と家並は復旧していきます。
 その大宮通が復活した部分(一条通と下長者町通の間)は、次のような状態でした。

 『京都坊目誌』には、「新大宮通 [一條中立賣間ナリ]  明治三十二年開通す。中立賣下長者町間を和泉町通と稱す。元と聚樂第内に屬し。清泉のありし所なり。元和元年新に之を通す」としています。
 一条通から南の下長者町通までの間、つまり糸屋町・和水町・東堀町の3町を通貫する道はもともと和泉町通と称していました。しかし、上記の引用文を見ると、糸屋町は他の2町とは少しばかり様子が異なっていたことが窺えます。
 再び『京都坊目誌』から引用しましょう。
 「糸屋町 和泉町通 [元大宮の西筋なり。明治三十二年末當町を北に開き四間道路とす。今俗に新大宮と呼べり] 中立賣上る所を云ふ。開通不詳。明治三十二年再開せり。」
 さらに、「元此地聚樂城東北の外壕たり。後ち之を埋め町地とす。文祿の文書に既に糸屋町とあり。一名を袋町と云ふ。明治三十二年迄袋地 [一方より通せず] たりしを以てなり。」としています。
 つまり、糸屋町の北端は一条通へ突き抜けていなかったのです。
 宝暦4年(1754)刊「名所手引京圖鑑綱目」(日文研所蔵)を見ると、和泉町通中立売から糸屋町を北行すると、一条通の手前で行き止まりの袋小路となっていることが見て取れます。ここを、明治32年末に北に向けて幅員7m余りの道として開き、これを新大宮通と称したと云うのです。

袋 町
 「新在家丁」の北側で、「ナシノ木丁(梨木町)」の西側にある「フクロ丁(袋町)」は北端付近で行き止まりとなっているのが判ります。
  (画像をクリックすると図が拡大します)

Preview_3

 寛文5年(1665)刊の『京雀』にも、「しんさいけ町 此町の北に袋町とて只一町有」と出ています。 
 上図、フクロ町(現・糸屋町)の北端にあたる個所から南方向を望む。この辺りが行き止まりとなっていたのを開いたのです。横断歩道の所を左右(東西)に延びるのが一条通です。

_01_2

 そのあたりを、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』の記述からも見ておきましょう。
 「中立賣通」の個所に、「大宮西入  東新在家町」とあります。『京都坊目誌』によればこの「新在家町」は、元和期に町が開けて民家が建ち並ぶようになったことから新在家町と呼ぶようになったと云う。ここは、今、中立売通大宮にある新元町に該当します。
 そして、『京町鑑』は「此町北側中程上ル 袋町 此辻子行ぬけなし 同南側下ル 泉町」と続きます。この「袋町」は先に見たように、当時は行き止まりとなっていた現・糸屋町であり、「泉町」は後の和泉町で現・和水町ということになります。

新元町の仁丹町名表示板

_01_10

 なお、現在では糸屋町・和水町・東堀町(一条通から南の下長者町通まで)を通して大宮通としています。

 こうして、秀吉が聚楽第を築造したために、大宮通はその一部は中断したのですが、8年後には聚楽第が破却されたため、跡地が再び町地となって繋がったのです。
 ところが時代が降ると、今度は慶長7年(1602)に徳川家康が二条城を築造したために竹屋町通と押小路通の間が閉ざされてしまいます。

二条城二の丸御殿
 ここで大政奉還が議されました。

_01

 さらにその後、元祿16年(1703)には京都所司代屋敷の拡築で丸太町通と竹屋町通の間も閉塞してしまい、大宮通は再び部分的に途切れてしまって現在に至っています。

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