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2016年11月

2016年11月25日 (金)

暖簾いろいろ その12

北野上七軒で
 京都六花街の一つ「上七軒」は京都で最古の花街です。北野天満宮東門前から東へ延びる町並みで、天神さん修造の折に出た用材で、茶屋を七軒建てたのが始まりとされる。
 花街らしい雰囲気で、元はお茶屋であった建物を店舗として使っているところも多い。

くろすけ
 とうふ料理

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まつひろ(上七軒店)
 財布・バッグなど袋物

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弓月京店
 和装の店

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老 松
 和菓子

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2016年11月18日 (金)

辻子 ー萬年寺辻子ー 《補訂》

 以前(2014.5.2)に書いた記事「辻子  ーマンネンジノヅシー」、実はその辻子の位置がはたして正しかったのかどうか、ずっと気になっていたのです。
 しかしその後、新たに知り得たことが幾つかあって、誤りの訂正とあわせて足りない点を補い、全面的に書き直したものが本記事なのです。(当時の記事は、それはそれとして削除せずに残しています)

 ここで、まず「萬年寺辻子」とその界隈について簡単に説明しておきましょう。
 五条通河原町の一筋西にある道(現在の地図では「富小路通」となっている)は、本塩竈町を西寄りに斜行して六条通まで南下しています。そして、六条から南は真っ直ぐに上珠数屋町通(上枳殻馬場通とも云う)に至ります。
 この通は、かつて下寺町通と称していました。寺町通の南端は五条通まででしたが、明治になって五条通以南が通じたのです。このように、寺町通の下(しも)に当たることから、下寺町通と呼称されました。

 そして、この富小路通(元・下寺町通)を六条通まで南下すると、下寺町通はそこから真っ直ぐ南へ萬年寺の門前を通って上珠数屋町通に至りますが、ここが萬年寺辻子なのです。

 辻子の突き当たりは上珠数屋町通、築地塀の中は枳殻邸(東本願寺別邸)です。

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 その萬年寺辻子の途中、本塩釜町の南端と唐物町の境界にあたる地点から西方に延びる道があります。この道、かつては萬年寺通と称していたのですが、現在では花屋町通となっています。

仁丹町名表示板
 かつての萬年寺通=花屋町通沿いの家屋に設置されていました。

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 ここから本題の「萬年寺辻子」に戻ります。
 『京都坊目誌』中の「本鹽竃町」の記述から引用してみましょう。
 「元街名にして下寺町と称す。左右皆寺院なり。・・・(略)・・・此町南に於て萬年寺辻子と字す。萬年寺あるを以てなり。叉下寺町中央より東に通ずる小巷あり。市姫ノ辻子と稱す。市比賣神社あるを以てなり」とあります。
  つまり、下寺町通(本塩竈町)の南には、萬年寺があることから萬年寺辻子と云い、また、下寺町通の中程から東に入ると市姫神社があるので市姫辻子と称したのです。市姫辻子」については、以前(2014.4.11)に記事にしました。
 なお、萬年寺については、「萬年寺通烏丸の邊にありと。天正十九年豊臣氏の命に依り。現在の地に移轉す」と記していて、秀吉の京都大改造の折に花屋町通烏丸から今の場所へ移転させられたようです。

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 ということで、萬年寺辻子の所在する場所は、改めて次のように訂正します。
 「富小路通(元・下寺町通)六条の南、萬年寺の門前を南行して上珠数屋町通へと抜ける小路。栄町と本塩竈町の境界、唐物町、唐物町と八軒町の境界を南北に通貫しています。」
 したがって、当初は「本塩竈町を南北に通貫しています。(富小路通の五条〜六条の間)」としていたのは取り消します。実際には、この部分の南側だったのです。

 

2016年11月11日 (金)

きせる(煙管)

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Jpg_20200411110001
写真は、谷川清次郎商店の暖簾です。(春夏用&秋冬用バージョン?)
 下京区御幸町通仏光寺下ルにあるきせる(煙管)専門店で、創業は享保年間となっています。

 

 私はかつて東京の浅草寺境内に店を出していたお爺さんから、安いものを買い求めたことがあります。火皿に刻みたばこを詰めて吸うのですが、たばこの銘柄は「小粋」でした。

 たばこは、コロンブスがインディオ(アメリカインディアン)のたばこの葉を卷いて吸う習慣とともに持ち帰ったと云われます。
 そして、日本にたばこの入ったのは天正年間にスペインの貿易船がもたらしたと推定されているようです。この当時はまだ葉巻にして吸ったようで、『本朝食鑑』に「初め、番船(蛮船)の商夫、葉を卷きて筩(つつ)に作り、ひちりきの状の如くにし・・(略)・・のち蕃国吸管を伝う。これを幾世流(きせる)と号す」記されているようです。
 
 『京雀跡追』には、刊行当時の延宝6年(1678)に京都市内にあったきせる屋4軒が記されています。
① あいノ丁二條下ル丁(間之町通二条下ル町)
② 二條柳はゝひがしへ入さくらやと云(二条通柳馬場東入ル  桜屋という)
③ ふしみかい道大佛ゟ南に多し孫右衛門と云(伏見街道大仏より南=本町通正面下ル  に多し)
④ 三條橋ゟ白川はしの間(三条大橋から東へ白川橋の間)

 

 昔は大きな包丁と駒板(押さえ板)を使って葉煙草を刻む職人がおり、その職人は「ちんこ切り」と呼ばれたそうです。(勿論この「ちんこ」はあのチンコではありません
 ついでに、江戸時代の川柳集「柳多留」にある次の句をご覧ください。

  研ぎすまし胴切りにするちんこ切り

  《キセル写真》

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 真鍮製の火皿のある雁首と吸い口が竹管の羅宇(らお)でつながれています。
 羅宇ははじめ印度支那産の竹であるラオを用いたからとのことですが、国産では矢竹や斑竹を使うようです。
 この羅宇にヤ二(ニコチン)が溜ってくるため、ときどき新しいものに仕替えるのです。かつては、羅宇と道具を入れた箱を担って「羅宇しかえ〜」と呼ばわりながら、羅宇屋が廻ってきたそうです。

 ところで、キセルには上の写真のような普通のものだけではなく、色々と変わったものもあったようです。
 喧嘩煙管:長くて大きな鉄製のもので、喧嘩や闘争の際には武器として使われた。
 金鍔煙管:下に置いたときに吸い口が疊に付かないよう、吸い口に近い方に鍔がつけられている。
 夫婦煙管:一つの火皿に二本の羅宇と吸い口の付いた煙管で、遊郭では遊女が相方と一緒に使ったようです。自然と頬寄せあう形になりますね。


2016年11月 4日 (金)

消えた大宮通  3の3

3.  よみがえった大宮通

 文禄4年(1595)に聚楽第が破却されてその跡地一帯が町地化すると、大宮通と家並は復旧していきます。
 その大宮通が復活した部分(一条通と下長者町通の間)は、次のような状態でした。

 『京都坊目誌』には、「新大宮通 [一條中立賣間ナリ]  明治三十二年開通す。中立賣下長者町間を和泉町通と稱す。元と聚樂第内に屬し。清泉のありし所なり。元和元年新に之を通す」としています。
 一条通から南の下長者町通までの間、つまり糸屋町・和水町・東堀町の3町を通貫する道はもともと和泉町通と称していました。しかし、上記の引用文を見ると、糸屋町は他の2町とは少しばかり様子が異なっていたことが窺えます。
 再び『京都坊目誌』から引用しましょう。
 「糸屋町 和泉町通 [元大宮の西筋なり。明治三十二年末當町を北に開き四間道路とす。今俗に新大宮と呼べり] 中立賣上る所を云ふ。開通不詳。明治三十二年再開せり。」
 さらに、「元此地聚樂城東北の外壕たり。後ち之を埋め町地とす。文祿の文書に既に糸屋町とあり。一名を袋町と云ふ。明治三十二年迄袋地 [一方より通せず] たりしを以てなり。」としています。
 つまり、糸屋町の北端は一条通へ突き抜けていなかったのです。
 宝暦4年(1754)刊「名所手引京圖鑑綱目」(日文研所蔵)を見ると、和泉町通中立売から糸屋町を北行すると、一条通の手前で行き止まりの袋小路となっていることが見て取れます。ここを、明治32年末に北に向けて幅員7m余りの道として開き、これを新大宮通と称したと云うのです。

袋 町
 「新在家丁」の北側で、「ナシノ木丁(梨木町)」の西側にある「フクロ丁(袋町)」は北端付近で行き止まりとなっているのが判ります。
  (画像をクリックすると図が拡大します)

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 寛文5年(1665)刊の『京雀』にも、「しんさいけ町 此町の北に袋町とて只一町有」と出ています。 
 上図、フクロ町(現・糸屋町)の北端にあたる個所から南方向を望む。この辺りが行き止まりとなっていたのを開いたのです。横断歩道の所を左右(東西)に延びるのが一条通です。

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 そのあたりを、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』の記述からも見ておきましょう。
 「中立賣通」の個所に、「大宮西入  東新在家町」とあります。『京都坊目誌』によればこの「新在家町」は、元和期に町が開けて民家が建ち並ぶようになったことから新在家町と呼ぶようになったと云う。ここは、今、中立売通大宮にある新元町に該当します。
 そして、『京町鑑』は「此町北側中程上ル 袋町 此辻子行ぬけなし 同南側下ル 泉町」と続きます。この「袋町」は先に見たように、当時は行き止まりとなっていた現・糸屋町であり、「泉町」は後の和泉町で現・和水町ということになります。

新元町の仁丹町名表示板

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 なお、現在では糸屋町・和水町・東堀町(一条通から南の下長者町通まで)を通して大宮通としています。

 こうして、秀吉が聚楽第を築造したために、大宮通はその一部は中断したのですが、8年後には聚楽第が破却されたため、跡地が再び町地となって繋がったのです。
 ところが時代が降ると、今度は慶長7年(1602)に徳川家康が二条城を築造したために竹屋町通と押小路通の間が閉ざされてしまいます。

二条城二の丸御殿
 ここで大政奉還が議されました。

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 さらにその後、元祿16年(1703)には京都所司代屋敷の拡築で丸太町通と竹屋町通の間も閉塞してしまい、大宮通は再び部分的に途切れてしまって現在に至っています。

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