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2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

_01_7

 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

_01_9

 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

_01_10

 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。

【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》

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