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2017年1月

2017年1月27日 (金)

辻 子(ずし)−その発生をめぐってー 2の2

3. 平安京域の変化

 大内裏の正門にあたる朱雀門から南に延びるのが、平安京の中心線となる大路で幅28丈(約85m)の朱雀大路です。その南端に建てられたのが平安京の玄関である羅城門でした。

 大極殿遣址碑

_01_3

 そして、この朱雀大路を挟んで、左(東)京と右(西)京に分けられていました。
 ところが、前回に見たように京都盆地の地形・地質の関係で、右京域の南部は沼や沢が散在する低湿地であったため、人々が住むのには適さない土地で余り開発が進まなかったようです。
 このため、延暦13年(794)の奠都から、一世紀も経ないうちに右京域はすっかり衰退して、都は大きく様変わりします。
 そうした事情から平安京の左京域へ、とくにその北部へと人口が集中していきます。
 もともとの都の北限は一条大路でしたが、その一条大路から北に向かって大路・小路は延伸され、開かれることで人家が増えていきます。
 そしてまた、鴨川を東へと越えて古くからの官道である三条通沿いも開かれていきます。

4. 辻子の発生とその後

 ところが、新たに北方ヘと延長されたそれらの道は、それぞれが繋がっていないために、交通や生活の便からこれらの道どうしを東西に繋いで、新たに経路を開く必要が出てきます。
 この通りと通りを結んで、新たに作られたのが「辻子」でした。
 私が地誌や古地図などに出てくる辻子を調べたところでは、まだ見落としがあるかと思いますがその数は143ヶ所でした。それらのうち圧倒的に多くが現在の上京区、とりわけ烏丸通・大宮通・寺之内通・一条通を四囲とする範囲に集中しているのです。
 この事実は、先に述べた辻子の発生した理由、また集中した事情の裏付けになるものと考えます。

 衣屋辻子

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 こうしてできた辻子の始めは、隣接する道へ到達するための経路といったようなものでしたから、野道に近いような細道・小径といった、謂わばマイナーな道だったでしょう。
 そして、その辻子沿いや近辺に所在する寺院、公家屋敷などにちなんで辻子の名称が付けられたようです。
 こうして生まれた「辻子」に沿って、徐々に人家が建ち並んでいくに及んで、次第に「町場の道」へと様相が変わっていったのです。
 町場の道と辻子は、そのような関係にあったと言うのが私の考えなのです。

 ちなみに、地誌の記述も「町場の道」と「辻子」については、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は「當時縱横小路通稱 并 辻子」、そして、貞享2年(1685)刊の『京羽二重』では「南北洛中」「東西洛中」「洛中辻子」という項目立てにしています。
 これは外でもなく、元々、「町場の通り」と「辻子」とは、全く別個のものとして認識され、扱われてきたことを表しているものと考えられます。

 *** 附 記 ***
① 「辻子(図子)」をいくつかの辞書等で引いてみました。
 広辞苑(岩波)・・・「よこちょう、路地」
 大辞林(三省堂)・・・「大路と大路を結ぶ小路、または辻」
 世界大百科事典(平凡社)・・・「細道、小路、横町」
 古語辞典(岩波)・・・「小路、横町、路地」
 これらはいずれも、辻子の発生にまで意を払っていないため、在り来たりの説明となっています。
② この記事は私なりに、辻子とは何か、また、辻子ができた初期の様子を判り易く単純化して記述してみたものです。当然のことながら全ての辻子が東西方向のみに通じているわけではありません。当然、東西の道どうしをつないで南北方向に通じる辻子もできました。
③ 私が今までに諸資料の中に見出した辻子の数は143ですが、成立時期も様々であり既に消滅しているものも少なくはありません。

2017年1月20日 (金)

辻 子(ずし)−その発生をめぐってー 2の1

 今回の内容: 1. はじめに  2. 辻子発生の遠因
 次回の内容: 3. 平安京域の変化  4. 辻子の発生とその後

1. はじめに

 『酒瓮斎の京都カメラ散歩』は私が古稀の年に開設したので、5年半余りを経たことになり、今までにアップした記事は約320本にのぼります。よくもまァ続いたものと我ながら感心します。
 その中で、記事の数が最も多いのは、辻子シリーズで120本程になります。

瑞龍寺辻子

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 多くの辻子は依然として昔ながらの小さな道で、大きな通りとはまた違った佇まいを見せており、そこに住む人々の生活が感じられるような道が多いのです。
 現在では大通りとなってしまった辻子も少なからずあります。しかし、昔ながらの雰囲気が残る「まち」の佇まいこそ、私が辻子に惹かれた理由でした。

 この「ずし」ですが、辻子・図子・途子などいろんな表記があります。そして、辞書を引いて見ると、「よこちょう、路地」「大路と大路を結ぶ小路、または辻」などと説明されています。
 しかし、こうした説明では「大路」に対する「小路」といった意味合いとなり、単に大通りから入り込んだ小さな道、または細い道に過ぎないかのような印象を受けます。
 ところが、辻子が多く存在する地域とそうなった事情、つまり辻子の発生と理由を考えるとき、私としては辞書にある説明では、もう一つ行き届いた説明となっていないように思われて肯定しかねるのです。
 そこで、あくまでも「素人考え」ですが、「辻子の概念」といったようなものについて、私が折々に思いを巡らせていたところを、改めて記しておくことにしました。

追記:「ずし」の表記について、「厨子」としているものを見つけました。(’17.5.3)
 黒川道祐撰『嵯峨行程(西遊左券)』(延宝8年刊)に、「(略)叉北ニ常盤井アリ、相國實氏公ノ宅地今ハ民家トナル、今ハ常盤井ノ厨子ト云ヘリ、大峯ノ厨子ニ、役行者十代ノ法孫、日圓ノ塔殘レリ、(略)」とあります。

2. 辻子発生の遠因

 さて、京都盆地の地形を大雑把に見れば、北から南にかけて傾斜しており低くなっていきます。
標高で見ると市内北部の北山通が約75m、九条通にある東寺(教王護国寺)の五重塔の辺りが約24mだそうですから、その高低差は約50mです。

東寺五重塔

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 東寺の五重塔は、木造建築では日本で一番高くその高さは54m余りありますから、塔の先端と北山通はほぼ同じ高さとなります。
 そして、低くなっている南部でも、東方よりも西方がより低くなっています。つまり、南西部が最も低いという地形になっています。

 このような京都盆地の地形から、地表の地質は北部が鴨川(賀茂川)など諸河川の作用による扇状地で水はけの良い砂礫層、西南部は桂川や巨椋池の氾濫原で粘土やシルト(砂と粘土の中間の砕屑)などの低湿地堆積物で覆われているのが特徴です。

(次回に続く)

2017年1月13日 (金)

辻子 ー花山辻子ー

 姥ヶ東西町・姥ヶ榎木町・西五辻東町を南北に通っている小路です。
 上立売通浄福寺の二筋西の通り、姥ヶ東西町中程から南行して五辻通までの間を云います。

 この南北の通りの名称について、『京都坊目誌』では「姥ヶ北町通」としており「北は寺之内に起り、南は五辻に至る」、さらに、「街名起源 元姥ヶ懐と称する字なり、開坊の時(慶長の頃)取て稱とす」と記しています。

 また、「姥ヶ榎木町」の説明の中で、「叉此町を花山ノ辻子に云ふ  近世圖に見ゆ」としています。

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 なお上掲書には、この辺り一帯から千本通にかけて、町として開ける前には原野あるいは畑地であったこと、この一帯を「姥ヶ懐(うばがふところ)」という字名だったとも記しています。
 そして、町となるにあたって町名にその字名を冠したのだとしています。 
 その字名「姥ヶ懐」については、特に説明はありません。「姥のふところ」?「老婆のふところ」?、はてさて何のことでしよう。
 ということで、この周辺の町名の多くが「姥ヶ◯◯◯町」といった名称となっているのです。
 かつて、毎年5月の今宮神社祭礼の時には、各町で掲出する神灯には◯の中に姥、懐の字を紋章として付けていたのは、こうした昔の名残りだと云っています。

「姥ケ西町」の仁丹町名表示板
 これは現存数の極めて少ない木製の一つです

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2017年1月 6日 (金)

暖簾いろいろ その13

カサ六瓢
  上京区大宮通元誓願寺下ル
  デイケアセンター
  無病息災の「むびょう」を六つの瓢簞の「六瓢」で表現しているとか

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たわらや
  上京区御前通今出川下ル
  うどん屋
  超極太のうどんが一本だけ入っている!!!

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ゆば長
  上京区室町今出川上ル
  京湯葉

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魚 新
  上京区中道通浄福寺西入
  有職料理安政2年(1855)創業

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2017年1月 1日 (日)

明けましておめでとうございます

 皆様には良いお正月をお迎えになりましたでしょうか。
 私は朝からおおっぴらに呑めるお正月が大好きです。けれども、薬臭いお屠蘇は省略して御酒をいただいています。

 屠蘇の酒曲水花見月見菊
   年わすれまでのみつゞけばや  蜀山人

 
17_01

 このところ、世相・政治ともにタガが外れてしまったかのようで、何処へ向かうのか判らない危うさを感じます。
 今年は何とか穏やかな、そして良い年になってほしいものです。

 皆様にはいつもこのブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。
 実はこのブログ、古稀に達したのを切っ掛けとして、惚け防止のために始めたものでした。(少しばかり動機が不純かも知れません
 けれども、気付けばいつの間にやら5年余りを経て、記事の数も320本を越えました。(よくもま〜続いたものと、我ながら感心します
 地味なブログではありますが、まだ当分の間は閉鎖せずに続けたいと思っています。
 今後も時折覗いていただけると嬉しいです。

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